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東京都豊島区の歴史
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所在地 豊島区巣鴨1-17・18・25~33

 徳川慶喜巣鴨屋敷跡
 徳川幕府15代将軍徳川慶喜(天保8年〔1837〕~大正2年〔1913〕)がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治30年(1897)11月、慶喜61歳のことであった。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年3月には皇居に参内、明治35年(1902)には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。
 巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷身とに因んだ梅林になっており、町の人からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。慶喜が巣鴨に居住していたのは明治34年(1901)12月までの4年間で、その後小日向第六天町(現文京区小日向1・4丁目付近)に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白~田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされている。
 平成10年(1998)5月 巣一商店会 豊島区教育委員会



嘉永7年(1854)刊行。案内図として作成されたため実測は異なるが、当時の様子をよくとらえている。図の下半分を斜めに通る道が中山道。徳川慶喜の屋敷は、当図において「巣鴨町下組」(明治5年(1872)に廃止。一部が巣鴨1丁目となる)の辺りに建てられた。
 平成24年(2012)3月豊島区教育委員会
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所在地 豊島区巣鴨3-27

 染井吉野の碑
題字   鳥居敬誉
制作   林刻■
      永井信一
施工   中野組石材工業㈱
 昭和55年(1980)9月3日建立










所在地 豊島区巣鴨3-21-21

真言宗豊山派
 医王山 東光院 真性寺(眞性寺)
宗派     真言宗豊山派
宗祖     弘法大師空海上人
中興祖    興教大師覚鑁上人
派祖     専誉僧正(豊山長谷寺第一世化主)
総本山    豊山長谷寺 奈良県桜井市初瀬
大本山    神齢山 護国寺 東京都文京区大塚5丁目
当山開基  年代等不詳
中興開基  元和元年(1615)祐遍法印
本尊     薬師如来(秘佛)木彫
脇侍     日光菩薩・月光菩薩・十二神将 木彫
境内佛    地蔵菩薩大像
          江戸六地蔵第三番 地蔵坊正元勧請
          正徳4年(1714)造立
          金銅製 像高2メートル68センチ
        阿弥陀如来像
          阿弥陀堂本尊 金銅製
        九品仏
          阿弥陀堂内安置 阿弥陀如来像9体 木彫
        閻魔大王
          阿弥陀堂内安置 木彫
札所     弘法大師御府内八十八ヶ所第三十三番
        江戸六地蔵尊第三番
行事     江戸六地蔵尊百万遍大念珠供養 毎年6月24日




江戸六地蔵第3番

御府内八十八ヶ所霊場33番札所

豊島八十八ヶ所霊場33番札所








  眞性寺由緒沿革
 当寺は、医王山東光院眞性寺と称し、眞言宗豊山派に属し、奈良県桜井市初瀬にある総本山長谷寺の末寺であります。
 当寺の開基は、聖武天皇勅願行基菩薩開基と伝えられています。中興開基は元和元年(1615)祐遍法印であります。御本尊は薬師如来でありまして、古来より秘佛として一切開扉されて来ておりません。当寺は、江戸時代より弘法大師御府内八十八ヶ所第三十三番札所・江戸六地蔵参り第三番となっています。
 巣鴨は中山道の江戸への入り口に当たり、8代将軍徳川吉宗公が度々狩りに来られ、当寺が御膳所とされていました。





 真性寺には『銅造地蔵菩薩座像』、『芭蕉句碑』があります。





所在地 豊島区巣鴨3-21-21 (真性寺)

 銅造地蔵菩薩座像
 像の高さは2.68メートル。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江戸六地蔵第四番(巡拝の順番は3番目)として、正徳4年(1714)ごろ建立したものです。
 製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。大正12年(1923)の震災により破損したが修理されている。
 なお、江戸六地蔵は次のとおりである。
品川寺  品川区南品川3丁目
太宗寺  新宿区新宿2丁目
東禅寺  台東区東浅草2丁目
霊厳寺  江東区白河1丁目
永代寺  江東区(消滅)
 東京都文化財保護条例(昭和51年〔1976〕3月31日改正)により、文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更しましたので、石造標識については、このように読み替えて下さい。
 平成6年(1994)3月31日建設 東京都教育委員会















所在地 豊島区巣鴨3-21-21 (真性寺)

 芭蕉句碑
白露も こぼさぬ萩の うねりかな

 杉風 碑裏面
萩植て ひとり見習ふ 山路かな

寛政発丑歳仲夏 1793年  
 採茶庵梅人社中




所在地 豊島区巣鴨2-14-7

浄土宗
 祥雲山 瑞真院 善光寺




所在地 豊島区巣鴨3-35-2

曹洞宗
 萬頂山 高岩寺

 とげぬき地蔵尊


 山号・寺号
萬頂山高岩寺
 開創年代
埼玉県熊谷市大字下奈良萬頂山集福寺五
世扶獄太助大和尚
 開創地
神田明神下(現千代田区外神田2丁目)のち下谷屏風坂下(現台東区上野7丁目岩倉高等学校附近)に移転
 当地移転
明治24年(1891)5月28日。同年9月24日入仏式。昭和初期に中仙道新道(現国道17号)建設により境内分割。現本堂完成昭和32年(1957)11月30日。庫裡完成昭和59年(1984)12月18日。
 
 正徳3年(1713)5月(徳川7代将軍家継の治世)、江戸小石川に住む田付氏の妻、常に地蔵尊を信仰していたが、一人の男児を出産後重い病気に見舞われて床に臥した。諸々の医者が手をつくしたが、病気は悪化の一途。彼女は生家に宿る怨霊によって女はみな25才までしか生きられないという父母の話を夫に伝えた。
 田付氏は悲しみの中に、この上は妻が日頃信仰する地蔵尊におすがりするほかはないと毎日一心に祈願を続けた。
 ある日のこと田付氏の夢枕に一人の僧が立ち「自分の形を一寸三分に彫って河水に浮かべよ」という。田付氏が「急には彫り難い」と答えると「お前に印像をあたえよう」といわれ、夢がさめた。不思議な夢と枕元をみると、木のふしのようなものが置いてあり、平らな部分に地蔵菩薩のお姿があった。
 田付氏は夢にあった通りと不思議に思いつつも、地蔵尊の宝号を唱えながら形を印肉にしめして一万体の「御影」をつくり、両国橋から隅田川に浮かべ、一心に祈った。
 その日の夜午前2時頃、田付氏は妻の呼ぶ声にいってみると「今夢うつつの中に男があらわれ、長い棒と籠のようなものを持って枕上に立ちました。すると香染の袈裟をつけた一人の僧が出て来て蚊帳の外に引き出し、次の間で錫杖で背中をついて追い出してしまいました」といった。
 このことがあって以来田付夫人の病気はしだいに快方に向かい、11月中旬には床をはなれ、以後無病になった。
 田付氏がこの冷厳を山高氏の家で話していると、一座の中に西順という僧がいて、その御影をほしいといわれ、2枚をあたえた。西順は毛利家に出入りしていたが、ある時同家の女中が口にくわえていた針を飲みこんで大いに苦しんだ。西順が持っていた地蔵尊の御影1枚を飲ませると、腹中のものを吐き、御影を洗ってみると、飲みこんで針がささって出て来た。(享保13年〔1728〕7月17日=8代将軍吉宗の治世、田付氏が自ら記して高岩寺に献納された「霊験記」より)











 高岩寺には『洗い観音』、『小僧稲荷神社』があります。








所在地 豊島区巣鴨

 巣鴨地蔵通商店街(旧中山道)
 旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使われてもらう人などもいました。
 旅人は、農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国元で栽培しようと、タネを欲しがる人も多く、やがては農家の副業としてタネを販売するようになりました。その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現するとタネを扱う専門店ができ、明治の中期には巣鴨のとげぬき地蔵から板橋区清水町にいたる約6kmの間にタネ問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並びさながら、タネ問屋街道になっていました。
 寛永20年(1643)の代官所に申告した書き付けに、長野県諏訪からきたタネの行商人が榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れにきた模様が記されています。
 馬12~3頭をひいてタネを仕入れ、帰り道「萬種物」の旗を立てて街道のタネ問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売りと同じようにタネも行商により商われていました。
 平成9年(1997)度JA東京グループ
 陶業協同組合法施行50周年記念事業
 東京都種苗会
 
   
             THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO
           The Old Nakasendo,a Seed Dealer's Highway
 people travelling along the old Nakasendo used to drop in the farmer's house to eat their own lunches.When they saw a vegetable new to them in farmer's premises,they often asked for some seeds to take home to grow them.Eventually,farmer began to sell seeds as their  side job.Then,by the year 1890,there were 9 wholesalers and 20 retailers of seeds within the span of 6 km along the Nakasendo between Togenuki-JIzo in Sugamo and Shimizu-cho in Itabashi ward.The old Nakasendo looked like a Seed  Dealers' Highwai in hose days.

 


所在地 豊島区巣鴨5-35-33

日蓮宗
 正寿山 慈眼寺





 慈眼寺には『司馬江漢墓』、『斉藤鶴磯墓』、『芥川龍之介墓』、『谷崎潤一郎墓』、『小林平八郎墓』、『芥川也寸志墓』、『芥川比呂志墓』、『比翼塚』があります。


所在地 豊島区巣鴨5-35-33 (慈眼寺)

 芥川龍之介墓
 大正期の代表的小説家、代表作に「羅生門」「きりしとほろ上人伝」「或る阿呆の一生」「歯車」「河童」「西方の人」等、死後芥川賞が設けられた。
 豊島区教育委員会



 


所在地 豊島区巣鴨5-35-33 (慈眼寺)

 司馬江漢墓
 江戸時代後期の用具宇賀で蘭学者。安藤氏の子として延享4年(1747)江戸四谷に生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめ狩野派に学んだが飽きたらず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和7年(1770)春信没後春信の偽者を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋派の宋紫石に学んで漢画を習得した。暗影年間秋田蘭画の指導者小野田直武から酔う風雅の教え
を受け、天明3年(1783)腐触同伴がの創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(1818)10月21日72歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。著書には『西洋画談』『春波楼筆記』『和蘭通舶』などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化7年〔1810〕)寿塔である。
 平成5年(1993)3月31日建設 東京都教育委員会



 日本で最初の銅版画の創製に成功した。代表作には「銅板東都八景」がある。また「西洋画談」その他を著して、洋画の長所を力説した。
 豊島区教育委員会





所在地 豊島区巣鴨5-35-33 (慈眼寺)

 斉藤鶴磯墓
 江戸時代後期の儒学者。地誌研究家。宝暦2年(1752)水戸藩士の子として江戸に生まれた。通称宇八郎、諱は敬夫、字は之休、鶴磯は号である。寛政8、9年(1796~1797)から文化13年(1816)頃までの約20年間、江戸から離れて所沢に住み、鈴木牧之(秋月庵)の『北越雪譜』や赤松宗旦(義和)の『利根川図誌』と並ぶ江戸時代の地誌『武蔵野話初編』を文化12年(1815)に完成させた。翌年筆禍事件により所沢を去って江戸に移った。続編は門人の校訂によって文政10年(1827)に刊行された。他の著作に『女孝経補注』『干支考』『琢玉斎漫筆』などがある。文政11年(1828)2月7日77歳で死去し、深川猿江町にあった慈眼寺に葬られたが、寺院の移転により改葬された。
 平成5年(1993)3月13日建設 東京都教育委員会

 江戸中期各地を歩いて、綿密な調査と考証を重ね、名著『武蔵野話』を刊行した。武蔵野を科学的にとらえている点では、この時代の第一人者である。
 豊島区教育委員会


所在地 豊島区巣鴨5-35-33 (慈眼寺)

 比翼塚
 新内で「明烏夢泡雪」としてうたわれた浦里(吉原の遊女三芳野)と時次郎(札差伊勢屋のむすこ伊之助)の比翼塚である。
 豊島区教育委員会

 


所在地 豊島区巣鴨4-35-1

  巣鴨庚申塚
 江戸時代に書かれた紀行文の「遊歴雑記」に当庚申塚を次のように書いている。
 「武州豊島郡巣鴨庚申塚は江戸より板橋の駅に入る立場なりよしず囲いの茶店あり団子茶屋と称す。
石碑を見るに明暦3年(1657)と彫られ、又古老からの聞き書きとして文亀2年(1502)に塔を建立高さ八尺なり然るに明暦3年(1657)正月世にいう振袖火事の大火おこり江戸市中九分通りを焼き払う、復興資材をひさぐものひきもきらず、たまたま当庚申塔に立懸けたる竹木倒れ石碑四つ五つに砕けたり、故に村中相議し丈を縮めて今の塔を再建し、文亀2年(1502)の碑を塚の下に埋めたりと言い伝えを物語る、されば巣鴨庚申塚というは文化12年(1815〔遊歴雑記発行年〕)に至りて314年に及ぶ、故に庚申塚とてその名高し」と書かれている。
 又、長谷川雪且の描いた江戸とその近郊の絵入り地誌「江戸名所図会」にはこの庚申塚に中山道の浮世絵にも当地の描写があり、付近の賑いが見られる。
庚申様を神として祭ったのがいつの頃か判然としないけれども、神社といては伊勢皇太神宮の一角に大きな区画を占めて猿田彦神社があり、神宮は猿田彦の先導により開かれたと称されている。このへんから道祖神との関連も結びつくようである。神道による庚申信仰も相当の歴史をもって受け継がれて来たのであり、当「巣鴨猿田彦大神庚申堂」もその好例であろう。
 前述のように文亀2年(1502)に建てた「庚申待供養板碑」は破損し明暦3年(1653)に作り直したものが現在御本殿に祭る「庚申塔」である。
戦前は町会事務所なども合築された堂宇であったが戦災で焼失、その為この石碑の文字も判読しにくいが、江戸時代の庶民信仰と地域の歴史を知る上で大切なものとして豊島区の登録文化財にもなっている。
 ところで、庶民の間に庚申講が盛んになった頃、「庚申待ち」という集まりが行われ、庚申の日に夜を徹して来世の幸福を願って天帝に祈り酒食を持ち寄って賑やかに過す、という祭りが流行した、今はすたれたけれども当更新堂にもその名残りが偲ばれる。
昭和46年(1971)に御本堂を再建し、以後昭和49年(1974)には御水舎、平成3年(1991)には山門も形を整え荘厳さを増して、参拝の方々に喜ばれている。
年に6~7回、庚申の日にはお祭りをして多くの信仰者を迎えている。
 御祭神は左の通りである。
地津主  甲子大巳貴神       道祖神
       関              寿命神 
天津祖  庚申猿田彦大神      金神
       連                            塩竃神
人津霊  巳己少彦名神               幸神
                       船玉神
 平成4年(1992)6月吉日 巣鴨猿田彦大神庚申堂 奉賛会







   庚申塚由来記
 全国的に有名な巣鴨の庚申塚にあった庚申塔は、高さ八尺で文亀2年(1502)造立、現存していれば区内最古の石碑。
 昔、巣鴨の庚申塚は中山道の本街道であり、板橋宿の一つ手前の立場として上り下りの旅人の往来が激しく、休息所として賑わい簡単な茶店も在り、人足や馬の世話もした。
 広重の絵にも描かれ江戸名所図絵で見ると茶屋に人が休み、人足の奪い合いをしている旅人もいて賑やかである。
 ここに団子などを売る茶店もできて藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で、花の頃は小林一茶も訪れて、
 ふじだなに ねて見てもまた お江戸かな
の句もある。
 平成22年(2010)3月吉日


 巣鴨庚申塚には『「江戸の名所」碑』、『榎本留吉翁顕彰碑』があります。








所在地 豊島区巣鴨4-35-1 (巣鴨庚申塚)

 「江戸の名所」碑
 巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷近在に聞こえた名所でした。江戸と板橋宿との間にあり行き交う旅人たちで賑わっていたと伝えられ、その様子は「江戸名所図会」にも描かれています。現在では、特に庚申の日ともなると、近くの「とげぬき地蔵(高岩寺)」の縁日(毎月四の日)と同様に多くの参拝者があります。庚申塚では町内会の人たちが、参拝者に対し、季節ごとに趣向をこらした食事を作ってもてなしています。
 「江戸名所図会」のなかの茶店の屋根の葭簀(よしず)の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座し、その銘文によれば1657年(明暦3年)に造立されたものということがわかります。これより以前、1502年(文亀2年)に造立されたといわれる石碑がありましたが今はなく、「遊歴雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えています。
 また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、これは、この巣鴨近辺の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神を分祀したという歴史的事実によるものです。
 平成4年(1992)3月 豊島区教育委員会発行(石造文化財より)

 巣鴨猿田彦大神(庚申堂)奉賛会世話人
 庚申塚町会
榎本泰吉 太田義高 三島喜久蔵 仲村喜一 成田弥広 小原精重郎
高森ひさ 鈴木敏一 浦野保男 大野勇 門叶粂吉 岡田健次郎 土屋志づ子
藤田りん子 千原和子 田中長太郎 
 栄和町会
神谷正夫 竹本正義 福本吉太郎 大久保信 石山公一 小島良昌 大塚元之
御菩薩池花枝 大塚シヅ
 巣鴨4丁目協和町会
名取賢一 久保田友永 加藤吉太郎 遠山宏 忍田雅之 上村徳之助
照内義雄 広瀬重達 杉山鈴谷 井上好尉 山内雅晴 池田尚弘 中村和子
君島つや子
 折戸協和町会 
佐野隆光 山田和夫 前田隆司 尾見誠一 井澤清 鈴木健三郎 池田金之助
前田寿美子 寿川冨美子 
 奉賛会
会長 榎本泰吉
 天祖神社
宮司 高島俊彦
 
 大滝教会
代表 飯島寿門








所在地 豊島区巣鴨4-35-1 (巣鴨庚申塚)

  榎本留吉翁顕彰碑

榎本留吉翁は、明治32年(1899)庚申塚に生をうけ、戦前、戦後を通じ、町会長として、庚申堂の奉祭につとめ戦災により焼失した堂宇を、昭和46年(1971)桧づくりい再建、昭和49年(1974)、手水舎を設ける等、境内整備につくした。これらは60余年に亘る翁の郷土愛のたまものであり、茲にその功績を賛へ、顕彰するものである。
 昭和60年(1985)9月吉日 猿田彦大神奉賛会
 天祖神社 宮司 高島俊彦書 真島泰峨文 石治刻




所在地 豊島区巣鴨5-34-24

曹洞宗
 霊亀山 法福寺



 


所在地 豊島区巣鴨5-32-2

曹洞宗
 松龍山 総禅寺
総禅寺の赤門は寛永元年開創以来徳川家と由緒深く天和3年(1683)当山五世吉州和尚代に徳川綱吉公より赤門を賜り、のち市井に赤門寺と称し親しまれた。










所在地 豊島区巣鴨5-35-6

法華宗陣門流
 徳栄山 総持院 本妙寺
 振袖火事
明暦大火供養塔
 関宿藩主
久世大和守歴代の墓
 江戸後期の北町奉行
遠山金四郎景元の墓
 江戸後期の剣聖
千葉周作の墓
 囲碁家元
本因坊歴代の墓
 江戸後期の将棋棋聖
天野宗歩の墓
 日本最初の通訳
森山多吉郎の墓 




 本妙寺には『遠山金四郎景元墓』、『千葉周作墓』、『明暦大火供養塔』、『森山多吉郎墓』、『久世大和守歴代墓所』、『天野宗歩墓』、『芭蕉四大家碑』、『玩具涅槃図』、
本因坊歴代墓所四世 本因坊道策墓四世跡目跡目 本因坊道的墓・五世 本因坊道知墓・十四世跡目 本因坊秀策墓六世 本因坊知伯墓・七世 本因坊秀伯墓・十三世 本因坊丈策墓八世 本因坊伯元墓・十四世 本因坊秀和墓九世 本因坊察元墓・十五世 本因坊秀悦墓十世 本因坊烈元墓十一世 本因坊元丈墓・十八世 本因坊秀甫墓十二世 本因坊丈和墓十六世・二十世 本因坊秀元墓十七世・十九世 本因坊秀栄墓二十一世 本因坊秀哉墓)』があります。


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