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東京都豊島区の歴史
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所在地 豊島区巣鴨5-35-6 (本妙寺)

 遠山金四郎景元墓
 遠山景元は、江戸時代後期の幕臣で寛政5年(1793)遠山景普の子として生まれた。
 文化6年(1809)金四郎と改名し、文政12年(1829)家督を相続、天保7年(1836)左衛門尉を許され、作事奉行、勘定奉行を経て天保11年(1840)3月町奉行(北)に任ぜられた。翌年から老中水野忠邦による天保改革が始まったが、その進行中の天保14年(1843)町奉行を罷免され、大目付に異動させられた。弘化2年(1845)町奉行(南)に復帰し、嘉永5年(1852)3月まで7年間にわたり勤役した。下情に通じた江戸時代屈指の名奉行といわれ、遠山の金さんとして様々な伝説がある。江戸歌舞伎三座取りつぶし策を、浅草の外れに移転させて存続させたのも遠山町奉行といわれている。隠居後は剃髪して帰雲と号し、市井に身をひそめて悠々自適の生活を送ったが安政2年(1855)2月29日61歳で病死した。法名帰雲院殿従五位下前金吾校遷日享大居士。明暦の大火(1657)の火元となったことでも知られる、本郷丸山の徳栄山本妙寺に葬られたが、本妙寺が明治44年(1911)この地に移転した時に改葬された。
 平成7年(1995)3月31日建設 東京都教育委員会







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所在地 豊島区巣鴨5-35-6 (本妙寺)

 久世大和守歴代墓所
初代   大和守広之
二代   同 重之
三代   同 暉之
四代   同 広明
五代   同 広挙
六代   長門守広
七代   大守守広周
 初代、四代、七代は老中職をつとめた。





所在地 豊島区巣鴨5-35-6 (本妙寺)

 森山多吉郎墓
 アメリカ人マクドナルドから直接英語を学んだ日本最初の通詞。
 ペリー浦賀来航のときも通詞をつとめた。
 ペリーは森山の語学力と共にその人柄も高く評価し、『日本遠征記』にその人柄を称えている。
 文久元年(1861)の遺欧使節団には福沢諭吉や福地源一が随行したが、両人の語学力に不安を感じた当時の駐日イギリス総領事オールコックの強い要請により森山が加えられた。
 明治4年(1871)3月16日没 清心院茶山日勇居士



所在地 豊島区巣鴨5-35-6 (本妙寺)

 千葉周作墓
江戸後期の剣豪、北辰一刀流開祖、神田お玉ヶ池、千葉道場(玄武館)主
 安政2年(1855)12月10日没 高明院勇誉智底敬寅居士










所在地 豊島区巣鴨5-35-6 (本妙寺)

 天野宗歩墓
江戸末期の将棋の名人で棋聖位に着く。
 安政6年(1859)5月13日没 玉用院名宗日歩居士



所在地 豊島区巣鴨5-35-6 (本妙寺)

 明暦大火供養塔
本妙寺と明暦の大火
 明暦の大火は通称振袖火事とも呼ばれ、史上最大の火事で歴史上では本妙寺が火元とされている。この火事により18万8千人の命が失われた。
 しかし、本当は本妙寺は火元ではない。
 幕府の要請により火元の汚名をかぶったのである。理由は、当時、江戸は家事が多く、幕府はひもとに対しては厳罰をもって対処してきたが、当山に対しては一切お咎めなしであった。
 それだけでなく、大火から3年後には客殿、庫裡を、6年後には本堂を復興し、10年後には富山が日蓮門下、勝劣派の触頭に任ぜられている。
 (触頭とは、幕府からの通達を灰化の寺院への伝達や、本山や配下の寺からの幕府への訴願、諸届を上申達する役)
 これはむしろ異例な厚遇である。
 さらに、当山に隣接して風上にあった老中の阿部忠秋家から毎年当山へ明暦の大火の供養料が大正12年(1923)の関東大震災にいたるまで260年余にわたり奉納されていた。
 この事実からして、これは一般に伝わる本妙寺火元説を覆するものである。
 (大火の供養料なら、大火後幕府亜犠牲者のために創立した両国の回向院へ奉納すべきである。)
 大火の当日は朝から北西の強風が吹き荒れていたことはきろくにより明らかである。
 真相は、本妙寺に隣接して風上にあった阿部家が火元である。
 老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙えらが火元の汚名を引受けたのである。
 そして、その結果として阿部家を失火の責任から救うということになり、それに対するお礼と解するのが妥当である。







所在地 豊島区巣鴨5-35-6 (本妙寺)

 本因坊歴代墓所
  「本因坊」の由来
 以後の本因坊家は江戸時代に成立した四家元の一つ(他には井上、安井、林の各家)です。また「本因坊」の名称は、京都・寂光寺の塔頭の一つ本因坊において、日海(後の算砂)が居住していたことに由来します。
 算砂は本因坊家の初代頭領として興隆への道を切り開き、囲碁界最高の栄誉である「名人・本因坊」に叙せられ、、また1603年(慶長8年)、江戸幕府から初代の「碁所」に任ぜられました。
 「碁所」とは、江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」の棋士の手合いを差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど、囲碁界最高の地位を保障された棋士です。
 碁所をめぐって四家はしばしば熾烈な争いを展開しましたが、その中で頂点に立ったのが本因坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の隆盛に貢献しました。その理由に実子相続を前提とする世襲制ではなく、弟子のなかで優れたものが相続する実力制だったことが挙げられています。
 本妙寺は創立後何度も場所をかえ、1910年(明治43年)現在地へ移転しましたが、その時に墓所の配置はほぼ現在の形となり、四世本因坊道策より二十一世本因坊秀哉に至るまで、本因坊代々の棋士と縁の人々が祀られております。
  

  「秀哉忌」について
 「最後の名人」二十一世本因坊秀哉は、1937年(昭和12年)引退を決意し、本因坊の明晰を日本棋院に譲ります。そして木谷實七段との「名人引退碁」が最後の対局となり、1940年(昭和15年)1月18日療養先の熱海で病没、享年66歳でした。
 翌年の一周忌までに碁碑が完成し法要が営まれました。それ以来、門人らの集まりである「秀哉会」により毎睦月18日に、「秀哉忌」が執り行われてきました。現在は日本棋因果主宰し、その年の「本因坊」のタイトルを持つ棋士が祭主を務め法要が行われております。

  歴代本因坊の紹介
           (本因坊)             (生没年)
一世            算砂       1559年(永禄2年)-1623年(元和9年)
二世            算悦       1611年(慶長16年)-1658年(万治元年)
三世            道悦       1636年(寛永13年)-1727年(享保12年)
四世            道策       1645年(正保2年)-1702年(元禄15年)
跡目            道的       1669年(寛文9年)-1690年(元禄3年)
五世            道知       1690年(元禄3年)-1727年(享保12年)
六世            知伯       1710年(宝永7年)-1733年(享保18年)
七世            秀伯       1716年(享保元年)-1741年(寛保元年)
八世            伯元       1726年(享保11年)-1754年(宝暦4年)
九世             察元       1733年(享保18年)-1788年(天明8年)
十世             烈元       1750年(寛延3年)-1808年(文化5年)
十一世           元丈       1775年(安永4年)-1832年(天保3年)
十二世           丈和       1787年(天明7年)-1847年(弘化4年) 
十三世           丈策       1803年(享和3年)-1847年(弘化4年) 
十四世           秀和       1820年(文政3年)-1873年(明治6年)
跡目             秀策       1829年(文政12年)-1862年(文久2年)
十五世       秀悦       1850年(嘉永3年)-1890年(明治23年) 
十六・二十世  秀元       1854年(安政元年)-1917年(大正6年) 
十七・十九世  秀栄       1852年(嘉永5年)-1907年(明治40年)
十八世      秀甫       1838年(天保9年)-1886年(明治19年)
二十一世     秀哉       1874年(明治7年)-1940年(昭和15年)       
 


 本因坊歴代墓所には
四世 本因坊道策墓
四世跡目跡目 本因坊道的墓・五世 本因坊道知墓・十四世跡目 本因坊秀策墓
六世 本因坊知伯墓・七世 本因坊秀伯墓・十三世 本因坊丈策墓
八世 本因坊伯元墓・十四世 本因坊秀和墓
九世 本因坊察元墓・十五世 本因坊秀悦墓
十世 本因坊烈元墓
十一世 本因坊元丈墓・十八世 本因坊秀甫墓
十二世 本因坊丈和墓十六世・二十世 本因坊秀元墓
十七世・十九世 本因坊秀栄墓
二十一世 本因坊秀哉墓』があります。










所在地 豊島区巣鴨5-32-5

曹洞宗
 龍淵山 白泉寺







 白泉寺には『庚申塔』、『万倍稲荷神社』があります。


所在地 豊島区巣鴨5-35-37

すがも平和霊園

高野山真言宗
 龍源山 功徳院 東京別院







 すがも平和霊園には『もやいの碑』、『磯村英一先生顕彰碑』、『平和祈念碑』、『飛天の塚』、『大黒天』があります。






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