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東京都豊島区の歴史
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所在地 豊島区雑司が谷3-20-14

 大鳥神社
一、祭神    
 日本武命
一、配祀    
 倉稲魂命
一、沿革
 正徳年間鬼子母神境内に鷺明神として創祀せらる。明治維新、神仏分離の令に依り大門欅並木の料亭蝶屋地内に大鳥神社と改称仮遷座す。此れを憂い旧幕臣矢嶋昌郁氏自己の宅地を社地として奉献永久鎮座の地漸く定まる。その後境内地を漸次拡張し現状となる。
一、境内社
 昭和のなかば首都高速道路五号線開通に伴い元日の出町より移り本社と相並び奉祀す。三杉稲荷神社と称す。
一、神事
 例大祭  9月上旬 土・日曜日
 酉の市  11月 酉の日
 大祓    6月・12月晦日
 月並祭  毎月1日、15日
一、神徳
 開運・招福



雑司が谷七福神
 恵比寿


    西宮神社 恵比寿神





    三杉稲荷神社








 大鳥神社には『高田町下水道築造記念碑』、『「雑司ヶ谷ナス」説明版』があります。



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所在地 豊島区雑司が谷3-20-14 (大鳥神社)

 「雑司ヶ谷ナス」説明版
 江戸時代、清戸坂の北側一帯は雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地は一部)で、坂の道ぞいには雑司ヶ谷清戸村百姓町があり、江戸への野菜供給基地としてナスのほか、ダイコンや青菜などを生産していました。

 とくに、味がいいと評判になった雑司ヶ谷ナスは、江戸時代後半から大正時代の中頃までもてはやされていました。
 ナスの栽培には、下肥(人糞尿)や馬糞が多く使われていました。
 ナスはその用途が広いため需要も多くて、キュウリと並んで夏野菜のなかで重要な地位を占めていました。大正時代の中頃まで、伝統的栽培技術は引き継がれ、その後、年毎に早く収穫できる技術が開発されたことから、昭和の初めにはタネまきの最盛期は、2月15日前後となりました。
 文献によると当時北豊島郡(現在の荒川・板橋・北・豊島・練馬の各区)におけるナスの作付け面積は、約200ヘクタールと記されています。
 平成9年(1997)度JA東京グループ
 農業協同組合法施行50周年記念事業
 東京あおば農業協同組合

   THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO
            Zoshigaya Nasu (Egg plant)
 During Edo Era,the area to the north of Kiyotozaka was the farming area of Zoshigara village (the present Zoshigaya cemetry).Along the hilly road lied Hyakusho-machi (i.e. farmer's town) of Kiyoto village where they produced a lot of vegitables to ship to Edo.
 THe tasty Zoshigaya egg plant enjoyed its reputation from the latter half of 1800s to 1920.Manure and horse dung were commonly applied to the culture of egg plant.


所在地 豊島区雑司が谷3-20-14 (大鳥神社)

 高田町下水道築造記念碑
我高田町ハ近年■常ニ発展シ人口既ニ五萬ニ達セリ是ニ於テ公衆衛生ノ根本的解決トシテ下水道築造ノ業ヲ遂行スルハ当然ノ要務ニして又實ニ本町百年ノ大計ナルヲ認■昭和四年(1929)六月之■施設計畫ヲ立テ同五年(1930)一月以降實地調査ヲナシ十月ニ至リ總工費一百九十餘萬圓六箇年継続事業トシテ築造完成ス可キ成案ヲ得其十四日高田町会ニ於テ満物一致之ヲ可決セリ乃チ状ヲ具シテ官ニ申請セシニ同十二月二十九日高田町長ヲシテ本事業ヲシッ呼応セシムル旨ノ内務省告示アリ且失業救済事業トシテ行フ可キ旨ヲ命ゼラレ翌年五月二十三日一切ノ認可許可ヲ完了セリ依テ同六月十七日起工ノ式ヲ挙げ爾来孜孜トシテ著著其工事ヲ進メツツアリ本事業ハ又實ニ本町道路網計晝ト相待チテ其一部ノ達成ヲ期シタリ即チ鶴巻道路日出道路根津道路等其主ナルモノトス以上ノ工事一切完成スルニ至ラバ本町民衆ノ福利ヲ増進スルコト寔ニ多大ナル可シ茲ニ市郡併合ニ方■其梗概ヲ記シテ以テ永永ニ傳フト云フ
 昭和7年(1932)9月 高田町長 海老澤了之■識



所在地 豊島区雑司が谷3-16

 鬼母神大門ケヤキ並木
 ケヤキ(欅)は、ニレ科の落葉大高木で、日本の代表的広葉樹の一つである。古名をツキ(槻)という。家具や建築用材、特に社寺の構造材や大黒柱によく使われている。『地誌御調書上』によると、天正(1573~1591)の頃、雑司谷村の住人長島内匠が、鬼子母神へ奉納のため植え付けたものと言う。鬼子母神鳥居先の町屋を大門ともいっていた。江戸時代には並木の伐採をめぐって訴訟がしばしば起こった。効果元年(1844)の訴訟は、江戸城本丸普請のため伐採しようとした村役人等に対して、寺川が御用木の名を借りた伐採は村役人の私欲によるものと訴えて伐採を中止させた争いである。昭和12年(1937)頃には、18本あったが、現在は4本を残すのみである。目通り幹囲5~6メートル、樹齢約400年以上といわれる大樹である。秋田雨雀・兜木正亨らによって結成された「大門欅並木保存会」が、保存に尽力した結果、東京府の「天然記念物」となった。
 平成2年(1990)3月31日建設 東京都教育委員会










所在地 豊島区雑司が谷1-40-3

日蓮宗
 妙光山 円常寺(圓常寺)



所在地 豊島区雑司が谷3-15-20 (鬼子母神堂)

面倒になればおつるか蝸牛

面倒になればおつるか蝸牛

            牛山
(京都賀茂神社の神官)


所在地 豊島区雑司が谷3-15-20 (鬼子母神堂)

 雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ
 イチョウ(銀杏・公孫樹)は、一属一種のイチョウ科に属する。裸子植物の落葉高木である。耐寒耐暑性があり、社寺の境内樹・庭園樹・公園樹・街路樹などに広く植栽されている。中国原産といわれ日本へは、遣唐使の帰国によてもたらされたという説もある。雌雄異株で、4月に開花し10月に種子(銀杏)は成熟し、黄葉する。
 樹高30メートル、幹周8メートルの雄株で、都内のイチョウでは、麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んである。応永年間(1394~1428)に僧日宥が植えたと伝えられている。古来『子授け銀杏』と言われ、戸張苗堅の『櫨楓』によると、婦人がこのイチョウを抱く光景がみられ、注連縄を張るようになったのは、文政年間(1818~1729)の頃という。
 平成2年(1990)12月27日建設 東京都教育委員会

             Zoushigaya Kishimojin no Icyou
 This is an outstanding giant ginkgo tree at Kishomojin-do in Zoushigaya.The trunk circumference is 6.63 m,the height is 32.5 m and the branches reach out 10 m in all directons. It is the second biggest ginkgo tree afte the one in Zenfuku-ji (designated a national monument by government /Minato-ku).The ginkgo in Zoushigaya was designated a natural monument by the government  in 1930,however it was unlisted in January 1946 and designated again by Tokyo metropolitan.It was called Kosazuka Konsouju(the ginkgo that gives children) and people believed it had miracle power.But now it is called Kosodate Icyou(the ginkgo that raises children).
 This is probably becouse the power of the ginkgo tree was similar with Kishimojin's.It offers a quiet view,in contrast to the nearby busy downtown of Ikebukuro.
 Tokyo Metoropolitan Board of Education 












所在地 豊島区雑司が谷3-15-20 (鬼子母神堂)

 武芳稲荷神社
武芳稲荷と称したるは何時の頃よりか不明なるも寺説によれば弘治年中(400年前)勧請の旦社にて鬼子母神の地主の神なり 又鎮座伝記には宇賀美多麻(稲荷大明神)三狐の神と同座なりと現在の尊像は貞亨卯月吉日開眼の銘あり
















所在地 豊島区雑司が谷3-15-20 (鬼子母神堂)

 鬼子母神堂本堂
  東京都指定有形文化財 指定昭和35年(1960)2月13日
 『新編武蔵風土記稿』によると建立は天正6年(1578)5月3日であるが、そののち寛文4年(1664)松平安芸守光晟の室、法名自昌院英心日妙大姉が寄進して、今の本殿を造営した。
 拝殿と幣殿(相の間)は元禄13年(1700)に建立されたことが、昭和51年(1976)におこなわれた昭和大修理において発見された墨書や銘文によって確認されている。
 本殿は桁行6.04メートル、梁間5.77メートル、一重、流造、桧皮葺形銅版葺。相の間は桁行6.06メートル、梁間6.04メートル、一重、両下造、とち葺形銅版葺。拝殿は桁行17.86メートル、梁間11.81メートル、一重、入母屋造。厨子は一間厨子、入母屋造、軒唐破風附本瓦形板葺。
 平成2年(1990)12月27日建設 東京都教育委員会

     Houmyou-ji Kishimojin-do
Honden(main hall):6.06m wide,5.90m deep,One-story,Flowing style gable roof,Cooper tile roofing,Ai-no-ma(space betwiin two buildings),3-bays wide,1-bay deep,One-story,Gable roof without gabe pediments.Haiden (worship hall):5-bays wide.4-bays deep,One-story,Hip-and-gable roof,Plover bargeboard at front,1-bay wide stepcanopy,Eabes with undulaing bargeboards,Light wight tile roofing (a pantile that combines broad concave tiles and semi-cylindrical convex tiles),Copper tile roofing only for eaves with undulating bargeboards.

 According to the ridge tag,Kishimojin Honden was constructed in 1644.Haidenn and Heiden (offering hall),which have complex roof styles,were built in 1700.According to Shinpen-Musashifudokiko (chorography of Musashikou),princess Man (3rd daughter of Toshitsune,a fudal lord of Kanazawa clan),the official wife of Mitsuakira Asano,a feudal lord of Hiroshima clan,contributed to the construction of this temple.Honden is Sangensha-nagare-zukuri (3-bays wide and has a symmetric flowing style gable roof) and 2-bays deep.It contains a 3-bays wide room including a step canopy.Heiden,whichconnects Honden and haiden,is 3-bay wide and 1-bays deep.A three steps stair is connected to its centre.Haiden is 5-bay wide,4-vays deep,and has a hip-and -gable roof an plover bargeboards.A step canopy with undulating bargeboard is at front and veranda surrounds the front and the sides.Kishimojin was founded becous a Kishimojin statue was found in 1561.According to Shinpen-Musashifudokiko and other records,a sub-templeTouyobo(now Daigyou-in),was the main worship place before.At the end of Edo period,Houmyou-ji was so popular that eve the Shogun visited.
 Tokyo Metropolitan Board of Education





















所在地 豊島区雑司が谷3-15-20 (鬼子母神堂)

 北辰妙見堂
 妙見さまはまたの名を北辰菩薩・尊星王などといい、本来北斗七星を神格化したものであります。妙見さまの御利益は国土を守り、長寿延命をはじめとする除災招福とされ、またその名称の”妙見”から眼病平癒の菩薩として尊崇されています。
 そのお姿には童子像のものや国土擁護の威神力を示すための武神像のものもありますが一般には美しい天女像で、雲まには亀に乗り、左店蓮華を持ち、その蓮華の上には北斗七星が形づくられ、右手では説法印(教えを説く姿を示すもの)を作るもの、また四臂でそれぞれの手に日輪と月輪、筆と紙を持つお姿などがあります。
 この筆と紙は妙見さまが、空の星のように人びとの生活を見おろし、その善悪の生活を記録されているさまを示すものであります。妙見信仰は本来、真言宗からはじまりましたが、日蓮宗でもとの信仰は盛んで、大阪能勢の妙見さまとその別院の東京墨田区本所の妙見さままたは墨田区柳島の妙見さまなどは有名です。
 当堂に安置する尊像は天女像で亀に乗っておられます。亀に乗った妙見さまは池上本門寺妙見堂にお祀りする尊像など数多くみられますが、この亀は北の空を守る玄武神の化身とされています。当堂の尊像が何時建立されたのかは不明ですが昭和51年(1976)から4年間にわたって行われた鬼子母神堂の大改修の折に発見された棟札によって、この妙見堂が天明8年(1788年徳川11代将軍家斉の時代で鬼子母神堂の本殿建立の122年後)であることが明らかになりました。






所在地 豊島区雑司が谷1-32-5

 菊池寛旧居跡
 菊池寛は、明治21年(1888)12月26日に香川県高松市に生まれた。戯曲「父帰る」、小説「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などの作品で文壇の地位を確立した。その後、大正12年(1923)に雑誌「文藝春秋」を創刊、昭和10年(1935)芥川賞・直木賞を創設するなど、後進の育成のも尽力し、文壇の大御所と言われた。
 寛は大正12年(1923)以来、当地から程近い雑司ヶ谷金山に居住していたが、昭和12年(1937)に当地に転居、晩年までここで過ごした。昭和23年(1948)3月6日没。
 「不実心不成事 不虚心不知事」
(実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず)は、寛の座右の銘として知られている。
 平成11年(1999)11月 東京都豊島区教育委員会








所在地 豊島区雑司が谷1-37-11

 千石興太郎記念碑
 千石興太郎氏は1874年東京に生れ 札幌農学校を卒えた後県農会県議師を経て産業組合中央に迎えられ 同会々頭全国購買組合聯合会々長を始めとして数多くの産業組合全国機関の要職を歴任し その間貴族院議員に勅選せられ東久邇内閣の農林大臣に就任する等77年の生涯を農業農民の発展に捧げた 氏は 資性剛毅人情に厚く時勢を洞察するに明敏 事に処するに果断 その清新明朗なる人格は 大衆運動の指導者としての天資にめぐまれ 振興刷新期より拡充発展期の産業組合運動の中枢に在って 常にその推進の原動力となり わが国共同組合運動発展の礎を固めた第一人者である 晩年この地に居を定め 1950年8月22日この地において逝去す われら氏の遺徳を追慕するものたち相諮り この由縁の地を永く記念するためこの碑を建立するものなり
 昭和42年(1967)8月22日 千石興太郎記念碑建設委員会










所在地 豊島区雑司が谷3-19-14

日蓮宗
 妙永山 本納寺





 本納寺には『』、『』、『』、『』、『』があります。





所在地 豊島区雑司が谷3-19-14 (本納寺)

 乙字句碑
 作者の大須賀乙字は高浜虚子とともに正岡子規の双璧をなした河東碧悟桐の門下で「碧門の三羽の鴉」として活躍した俳人です。いつの頃か本納寺で開かれる句会に乙字も参加しており、乙字7回忌の時にゆかりの場所として当時の仲間達によって建てられたのがこの句碑です。

 


所在地 豊島区雑司が谷3-19-14 (本納寺)

 錦風居士句碑
夜は雪の明るさをもつ櫻哉   錦風居士

 勝峯晋風氏が亡父の句を自ら書いたもので、左下に晋風書と彫られています。

 勝峯晋風(かつみねしんぷう1887~1954)
 本名は晋三。俳人であり俳文学者。新聞記者生活15年を経て、大正12年(1923)の関東大震災以降は俳諧の研究や著述に専念するようになった。俳句ははじめ錦風(きんぷう)に学び、のちに伊藤松宇の教えも受けた。松宇主催の俳誌『黄燈』を創刊した俳文学に関する編集・著述多く、俳諧研究に大きな足跡を残した。

 


所在地 豊島区雑司が谷3-19-14 (本納寺)

 句碑(月花塚)
今宵見る月の外にもさかつきに 
  みちてこほるるさけもまたよき    信仁亭月和孝

花のみか酒さえあるかおもしろし
  ゆめのよし原夢の世の中    花信亭明鐘起

これは狂歌を好んだ雑司が谷在住の茗荷屋沖右衛門(雅号を鹽梅舎辛伎)が両人の早世を悼み、社中の仲間に呼びかけて建立したものです。これが完成した時には追悼の狂歌会が盛大に催されたそうです。またこの碑の筆をとたのは、芭蕉や西鶴、近松とともに江戸文学の担い手として名をはせた太田蜀山人(1749~1823)です。


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