東京都豊島区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 豊島区巣鴨5-35-6 (本妙寺) 本因坊歴代墓所 「本因坊」の由来 以後の本因坊家は江戸時代に成立した四家元の一つ(他には井上、安井、林の各家)です。また「本因坊」の名称は、京都・寂光寺の塔頭の一つ本因坊において、日海(後の算砂)が居住していたことに由来します。 算砂は本因坊家の初代頭領として興隆への道を切り開き、囲碁界最高の栄誉である「名人・本因坊」に叙せられ、、また1603年(慶長8年)、江戸幕府から初代の「碁所」に任ぜられました。 「碁所」とは、江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」の棋士の手合いを差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど、囲碁界最高の地位を保障された棋士です。 碁所をめぐって四家はしばしば熾烈な争いを展開しましたが、その中で頂点に立ったのが本因坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の隆盛に貢献しました。その理由に実子相続を前提とする世襲制ではなく、弟子のなかで優れたものが相続する実力制だったことが挙げられています。 本妙寺は創立後何度も場所をかえ、1910年(明治43年)現在地へ移転しましたが、その時に墓所の配置はほぼ現在の形となり、四世本因坊道策より二十一世本因坊秀哉に至るまで、本因坊代々の棋士と縁の人々が祀られております。 「秀哉忌」について 「最後の名人」二十一世本因坊秀哉は、1937年(昭和12年)引退を決意し、本因坊の明晰を日本棋院に譲ります。そして木谷實七段との「名人引退碁」が最後の対局となり、1940年(昭和15年)1月18日療養先の熱海で病没、享年66歳でした。 翌年の一周忌までに碁碑が完成し法要が営まれました。それ以来、門人らの集まりである「秀哉会」により毎睦月18日に、「秀哉忌」が執り行われてきました。現在は日本棋因果主宰し、その年の「本因坊」のタイトルを持つ棋士が祭主を務め法要が行われております。 歴代本因坊の紹介 (本因坊) (生没年) 一世 算砂 1559年(永禄2年)-1623年(元和9年) 二世 算悦 1611年(慶長16年)-1658年(万治元年) 三世 道悦 1636年(寛永13年)-1727年(享保12年) 四世 道策 1645年(正保2年)-1702年(元禄15年) 跡目 道的 1669年(寛文9年)-1690年(元禄3年) 五世 道知 1690年(元禄3年)-1727年(享保12年) 六世 知伯 1710年(宝永7年)-1733年(享保18年) 七世 秀伯 1716年(享保元年)-1741年(寛保元年) 八世 伯元 1726年(享保11年)-1754年(宝暦4年) 九世 察元 1733年(享保18年)-1788年(天明8年) 十世 烈元 1750年(寛延3年)-1808年(文化5年) 十一世 元丈 1775年(安永4年)-1832年(天保3年) 十二世 丈和 1787年(天明7年)-1847年(弘化4年) 十三世 丈策 1803年(享和3年)-1847年(弘化4年) 十四世 秀和 1820年(文政3年)-1873年(明治6年) 跡目 秀策 1829年(文政12年)-1862年(文久2年) 十五世 秀悦 1850年(嘉永3年)-1890年(明治23年) 十六・二十世 秀元 1854年(安政元年)-1917年(大正6年) 十七・十九世 秀栄 1852年(嘉永5年)-1907年(明治40年) 十八世 秀甫 1838年(天保9年)-1886年(明治19年) 二十一世 秀哉 1874年(明治7年)-1940年(昭和15年) 本因坊歴代墓所には 『四世 本因坊道策墓』 『四世跡目跡目 本因坊道的墓・五世 本因坊道知墓・十四世跡目 本因坊秀策墓』 『六世 本因坊知伯墓・七世 本因坊秀伯墓・十三世 本因坊丈策墓』 『八世 本因坊伯元墓・十四世 本因坊秀和墓』 『九世 本因坊察元墓・十五世 本因坊秀悦墓』 『十世 本因坊烈元墓』 『十一世 本因坊元丈墓・十八世 本因坊秀甫墓』 『十二世 本因坊丈和墓・十六世・二十世 本因坊秀元墓』 『十七世・十九世 本因坊秀栄墓』 『二十一世 本因坊秀哉墓』があります。 PR |
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|