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東京都豊島区の歴史
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所在地 豊島区高田2-2-18 (高田氷川神社)

 山吹之里碑
 新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の み(実)の(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会』(正徳2年〔1712〕)などの文献から、江戸時代中期の十八世紀前半には成立していたようです。
 「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63年(1988)の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
 この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3年(1686)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。
 平成16年(2004)3月 豊島区教育委員会

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所在地 豊島区雑司が谷3-20-14

 大鳥神社
一、祭神    
 日本武命
一、配祀    
 倉稲魂命
一、沿革
 正徳年間鬼子母神境内に鷺明神として創祀せらる。明治維新、神仏分離の令に依り大門欅並木の料亭蝶屋地内に大鳥神社と改称仮遷座す。此れを憂い旧幕臣矢嶋昌郁氏自己の宅地を社地として奉献永久鎮座の地漸く定まる。その後境内地を漸次拡張し現状となる。
一、境内社
 昭和のなかば首都高速道路五号線開通に伴い元日の出町より移り本社と相並び奉祀す。三杉稲荷神社と称す。
一、神事
 例大祭  9月上旬 土・日曜日
 酉の市  11月 酉の日
 大祓    6月・12月晦日
 月並祭  毎月1日、15日
一、神徳
 開運・招福



雑司が谷七福神
 恵比寿


    西宮神社 恵比寿神





    三杉稲荷神社








 大鳥神社には『高田町下水道築造記念碑』、『「雑司ヶ谷ナス」説明版』があります。



所在地 豊島区雑司が谷3-20-14 (大鳥神社)

 「雑司ヶ谷ナス」説明版
 江戸時代、清戸坂の北側一帯は雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地は一部)で、坂の道ぞいには雑司ヶ谷清戸村百姓町があり、江戸への野菜供給基地としてナスのほか、ダイコンや青菜などを生産していました。

 とくに、味がいいと評判になった雑司ヶ谷ナスは、江戸時代後半から大正時代の中頃までもてはやされていました。
 ナスの栽培には、下肥(人糞尿)や馬糞が多く使われていました。
 ナスはその用途が広いため需要も多くて、キュウリと並んで夏野菜のなかで重要な地位を占めていました。大正時代の中頃まで、伝統的栽培技術は引き継がれ、その後、年毎に早く収穫できる技術が開発されたことから、昭和の初めにはタネまきの最盛期は、2月15日前後となりました。
 文献によると当時北豊島郡(現在の荒川・板橋・北・豊島・練馬の各区)におけるナスの作付け面積は、約200ヘクタールと記されています。
 平成9年(1997)度JA東京グループ
 農業協同組合法施行50周年記念事業
 東京あおば農業協同組合

   THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO
            Zoshigaya Nasu (Egg plant)
 During Edo Era,the area to the north of Kiyotozaka was the farming area of Zoshigara village (the present Zoshigaya cemetry).Along the hilly road lied Hyakusho-machi (i.e. farmer's town) of Kiyoto village where they produced a lot of vegitables to ship to Edo.
 THe tasty Zoshigaya egg plant enjoyed its reputation from the latter half of 1800s to 1920.Manure and horse dung were commonly applied to the culture of egg plant.


所在地 豊島区雑司が谷3-20-14 (大鳥神社)

 高田町下水道築造記念碑
我高田町ハ近年■常ニ発展シ人口既ニ五萬ニ達セリ是ニ於テ公衆衛生ノ根本的解決トシテ下水道築造ノ業ヲ遂行スルハ当然ノ要務ニして又實ニ本町百年ノ大計ナルヲ認■昭和四年(1929)六月之■施設計畫ヲ立テ同五年(1930)一月以降實地調査ヲナシ十月ニ至リ總工費一百九十餘萬圓六箇年継続事業トシテ築造完成ス可キ成案ヲ得其十四日高田町会ニ於テ満物一致之ヲ可決セリ乃チ状ヲ具シテ官ニ申請セシニ同十二月二十九日高田町長ヲシテ本事業ヲシッ呼応セシムル旨ノ内務省告示アリ且失業救済事業トシテ行フ可キ旨ヲ命ゼラレ翌年五月二十三日一切ノ認可許可ヲ完了セリ依テ同六月十七日起工ノ式ヲ挙げ爾来孜孜トシテ著著其工事ヲ進メツツアリ本事業ハ又實ニ本町道路網計晝ト相待チテ其一部ノ達成ヲ期シタリ即チ鶴巻道路日出道路根津道路等其主ナルモノトス以上ノ工事一切完成スルニ至ラバ本町民衆ノ福利ヲ増進スルコト寔ニ多大ナル可シ茲ニ市郡併合ニ方■其梗概ヲ記シテ以テ永永ニ傳フト云フ
 昭和7年(1932)9月 高田町長 海老澤了之■識



所在地 豊島区西池袋1-1

 希望の像
夜の空 幸せふくろう
舞いおりて 豊島の街に
笑顔あふれる
 作詞 池袋小学校6年合作  書 山本千洞






所在地 豊島区巣鴨1-17・18・25~33

 徳川慶喜巣鴨屋敷跡
 徳川幕府15代将軍徳川慶喜(天保8年〔1837〕~大正2年〔1913〕)がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治30年(1897)11月、慶喜61歳のことであった。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年3月には皇居に参内、明治35年(1902)には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。
 巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷身とに因んだ梅林になっており、町の人からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。慶喜が巣鴨に居住していたのは明治34年(1901)12月までの4年間で、その後小日向第六天町(現文京区小日向1・4丁目付近)に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白~田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされている。
 平成10年(1998)5月 巣一商店会 豊島区教育委員会



嘉永7年(1854)刊行。案内図として作成されたため実測は異なるが、当時の様子をよくとらえている。図の下半分を斜めに通る道が中山道。徳川慶喜の屋敷は、当図において「巣鴨町下組」(明治5年(1872)に廃止。一部が巣鴨1丁目となる)の辺りに建てられた。
 平成24年(2012)3月豊島区教育委員会


所在地 豊島区巣鴨3-27

 染井吉野の碑
題字   鳥居敬誉
制作   林刻■
      永井信一
施工   中野組石材工業㈱
 昭和55年(1980)9月3日建立










所在地 豊島区東池袋1-50-23

 池袋水天宮
御祭神  天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)
      安徳天皇 第八十一代
      建礼門院 高倉天皇の中宮・安徳天皇の祖母
      二位ノ尼 平清盛の妻・安徳天皇の祖母・建礼門院の母
 今から800年昔、寿永4年(1185)、日本の国は源氏と平氏の二つに分かれて戦った。最後の決戦の場になった赤間関(下関市)の沖合、壇ノ浦の戦で敗れた平家の女官按察使の局が源氏の目を逃れ久留米付近に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠をたててお祀りしたのが創めです。
 さらに天御中主大神(この国をつくったと伝えられる神)を祀り、やがて平家の三方とこの神の四柱を祀るこの祠を水天宮と称されるようになりました。
 慶長4年(1600)有馬豊氏は、家康から筑後川沿岸を領有する久留米藩主を命ぜられました。2代目有馬忠頼は、このあたりの村人たちが厚く水天宮を敬うのを知ると、立派な新社殿を建て寄進しました。
 この水天宮さまは筑後川のほとりにあったので、元来は名の水を司る神様で水天竜王ともいいます。
 阿蘇、九重の連山に源を発し、有明海に注ぐ九州第一の大河筑後川は、静かに流れているときは豊かな米、麦の実りを助けますが、大雨が降り続くとまるで狂った竜のように暴れて、人家を呑み田畑を流します。
 やがて藩主有馬頼徳の時代になって、参勤交代で江戸へ来ているあいだも郷里の天候が心配で、文政元年(1818)久留米の水天宮を江戸の藩邸内(港区赤羽)に分霊して祀り、筑後川の氾濫がなく、後刻が実るように祈願することにしたのです。
 そのころの江戸は世界一の大都市であったといわれており、また諸国から集まって来る大名が、多くの家来を連れて江戸へやって来るので、水天宮も参拝人で大層賑わったのです。
 明治維新により藩邸が接収され有馬邸が青山に移ると共に青山へ、さらに明治5年(1872)現在の日本橋蛎殻町に御鎮座致しました。
 そして池袋水天宮は、昭和3年(1928)に投じの池袋の有志の方々が池袋繁栄策の為に、日本橋蛎殻町の水天宮の御礼を頂いて来てお祀りしたのがその始まりです。
 その後地主さん方の都合によって数回移転を致し、終戦後げんざいちの池袋駅前公園内に御社殿を御造営申し上げたのです。
 さらに地域発展の為に協力援助に立ち上がられた方々が、池袋水天宮奉賛会の皆様です。
 その後、東池袋1丁目中央町会が奉賛会の運営を引き継ぎ、豊島区及び地域住民及び氏子皆様方の格別なるご支援とご協力の元に、護持されてまいりました。
 現在では、地域の集会や例大祭等を介して、コミュニティの場として地域のシンボルとなっています。
 平成12年(2000)、豊島区の池袋駅前公園改築工事に伴い、老朽化の目立つ水天宮の御社の全面改築工事を、近隣地域住民の熱意によりここに完成されました。
 平成12年(2000)6月吉日
 池袋水天宮奉賛会
 東池袋1丁目中央町会
 東池袋ウイロード商店街振興組合








所在地 豊島区東池袋2-51

 時習小学校・西巣鴨町役場記念碑



  豊島区立時習小学校跡地
時習小学校は、明治34年(1901)5月10日に時習尋常高等小学校としてこの地に創立されました。校名は、論語の「学而編」の一節「学びて時に之を習う」から引用されたものです。以来、平成15年(2003)に閉校となるまで100年以上にわたって多くの卒業生を送り出してきました。長年にわたり培われてきた伝統と校風は、統合後の朋有小学校(東池袋4丁目)に受継がれています。

  旧西巣鴨町役場跡地
時習小学校の敷地南側の一角には、旧西巣鴨町役場が建っていました。この位置に役場が建てられたのは、巣鴨村時代の大正2年(1913)で、昭和7年(1938)の豊島区の誕生までの約20年間にわたり使用されました。昭和13年(1938)には豊島区で最初の公会堂がこの地に建設されましたが、昭和20年(1945)、戦災により焼失しました。


所在地 豊島区南池袋3-6-16

日蓮宗
 紫雲山 玄静院

 


所在地 豊島区高田

 宿坂
 中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる場所がこの辺りにありました。天保7年(1836)出版の『江戸名所図会』には、金乗院とともに「宿坂関旧址」が描かれています。金乗院の裏門の辺りにわずかな平地があり、立丁場と呼ばれ、昔関所があった跡であるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそらくこれにちなむものと思われます。
 また金子直徳著『若葉の梢』(寛政10年〔1798〕)によれば、宿坂の関は関東お留の関で、鎌倉街道の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、高田馬場から雑司ヶ谷鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。
 江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話が今に伝わっています。










所在地 豊島区雑司が谷3-16

 鬼母神大門ケヤキ並木
 ケヤキ(欅)は、ニレ科の落葉大高木で、日本の代表的広葉樹の一つである。古名をツキ(槻)という。家具や建築用材、特に社寺の構造材や大黒柱によく使われている。『地誌御調書上』によると、天正(1573~1591)の頃、雑司谷村の住人長島内匠が、鬼子母神へ奉納のため植え付けたものと言う。鬼子母神鳥居先の町屋を大門ともいっていた。江戸時代には並木の伐採をめぐって訴訟がしばしば起こった。効果元年(1844)の訴訟は、江戸城本丸普請のため伐採しようとした村役人等に対して、寺川が御用木の名を借りた伐採は村役人の私欲によるものと訴えて伐採を中止させた争いである。昭和12年(1937)頃には、18本あったが、現在は4本を残すのみである。目通り幹囲5~6メートル、樹齢約400年以上といわれる大樹である。秋田雨雀・兜木正亨らによって結成された「大門欅並木保存会」が、保存に尽力した結果、東京府の「天然記念物」となった。
 平成2年(1990)3月31日建設 東京都教育委員会










所在地 豊島区上池袋2-1

 堀之内橋
 江戸時代の頃、この橋のあたりは新田堀之内村という畑作中心の小さな農村でした。明治に入ると巣鴨村に編入され、文明開化の波が押し寄せるに連れ、新しい交通機関として鉄道の建設が進みました。明治18年(1885)に山手線が品川~赤羽間、明治36年(1903)に、池袋~田端間が開通し、村も大きく様変わりを始めました。
 大正7年(1918)に町制の施行により西巣鴨町となり、「大字新田堀之内」は「堀の内」と改称されました。大正12年(1923)の関東大震災以後、多くの人が移り住み、急速に市街化が進んだのもこの頃です。
 昭和を迎えるとすぐに明治通りの整備が始まり、山手線をまたぐために架けられた橋が地名にちなんで「堀之内橋」と命名されました。昭和7年(1932)10月1日、東京市域拡張により豊島区が誕生し、この地域が「堀ノ内町」となりました。
 その後「堀之内町」の地名はなくなり、現在、「堀之内」は、橋や踏切の名として、わずかに残っているだけとなっています。
 平成13年(2001)3月 豊島区












所在地 豊島区上池袋2-38-4

 子安稲荷神社













 子安稲荷神社には『堀之内町 旧町名継承碑』があります。


所在地 豊島区上池袋2-38-4 (子安稲荷神社)

 堀之内町 旧町名継承碑
昭和7年(1932)~昭和44年(1969)の町名 17世紀中頃王子の梶原堀之内より分郷したのでその名がついたといわれます 主として現在の上池袋2、3丁目の区域です
 平成2年(1990)3月設置 東京都豊島区



所在地 豊島区巣鴨3-21-21

真言宗豊山派
 医王山 東光院 真性寺(眞性寺)
宗派     真言宗豊山派
宗祖     弘法大師空海上人
中興祖    興教大師覚鑁上人
派祖     専誉僧正(豊山長谷寺第一世化主)
総本山    豊山長谷寺 奈良県桜井市初瀬
大本山    神齢山 護国寺 東京都文京区大塚5丁目
当山開基  年代等不詳
中興開基  元和元年(1615)祐遍法印
本尊     薬師如来(秘佛)木彫
脇侍     日光菩薩・月光菩薩・十二神将 木彫
境内佛    地蔵菩薩大像
          江戸六地蔵第三番 地蔵坊正元勧請
          正徳4年(1714)造立
          金銅製 像高2メートル68センチ
        阿弥陀如来像
          阿弥陀堂本尊 金銅製
        九品仏
          阿弥陀堂内安置 阿弥陀如来像9体 木彫
        閻魔大王
          阿弥陀堂内安置 木彫
札所     弘法大師御府内八十八ヶ所第三十三番
        江戸六地蔵尊第三番
行事     江戸六地蔵尊百万遍大念珠供養 毎年6月24日




江戸六地蔵第3番

御府内八十八ヶ所霊場33番札所

豊島八十八ヶ所霊場33番札所








  眞性寺由緒沿革
 当寺は、医王山東光院眞性寺と称し、眞言宗豊山派に属し、奈良県桜井市初瀬にある総本山長谷寺の末寺であります。
 当寺の開基は、聖武天皇勅願行基菩薩開基と伝えられています。中興開基は元和元年(1615)祐遍法印であります。御本尊は薬師如来でありまして、古来より秘佛として一切開扉されて来ておりません。当寺は、江戸時代より弘法大師御府内八十八ヶ所第三十三番札所・江戸六地蔵参り第三番となっています。
 巣鴨は中山道の江戸への入り口に当たり、8代将軍徳川吉宗公が度々狩りに来られ、当寺が御膳所とされていました。





 真性寺には『銅造地蔵菩薩座像』、『芭蕉句碑』があります。





所在地 豊島区巣鴨3-21-21 (真性寺)

 銅造地蔵菩薩座像
 像の高さは2.68メートル。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江戸六地蔵第四番(巡拝の順番は3番目)として、正徳4年(1714)ごろ建立したものです。
 製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。大正12年(1923)の震災により破損したが修理されている。
 なお、江戸六地蔵は次のとおりである。
品川寺  品川区南品川3丁目
太宗寺  新宿区新宿2丁目
東禅寺  台東区東浅草2丁目
霊厳寺  江東区白河1丁目
永代寺  江東区(消滅)
 東京都文化財保護条例(昭和51年〔1976〕3月31日改正)により、文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更しましたので、石造標識については、このように読み替えて下さい。
 平成6年(1994)3月31日建設 東京都教育委員会















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