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東京都豊島区の歴史
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所在地 豊島区東池袋1-50-30

 四面塔
 享保の頃(徳川幕府8代将軍吉宗の頃)高田雑司ヶ谷と坂橋を結ぶ街道と礫川と東長崎を結ぶ街道の四ッ辻付近(現在の西部線池袋駅東口)は、夕方になると追はぎや辻斬りが出没し、夜はその難を逃れる為通行する人が途絶えました。
 享保6年(1721)の夏、一晩で17名の辻斬残骸があり、この不祥事を憂いて、池袋村民有志64人が雑司ヶ谷鬼子母神威光山法明寺第二十二世日相人に供養をお願いし、享保6年(1721)9月、法華経のお題目を刻した石塔を建立して無縁仏の霊冥福を供養しました。
正面には、お題目、右側面には、北の方板ばしみち、左面には、南方高田雑司ヶ谷道が記され、道標としても使われました。霊験あらたかな、この塔は四面塔尊と称され、以来、法華経の功徳により災難は解消されました。
 池袋四面塔尊奉賛会


    四面塔尊




    稲荷大明神






所在地 豊島区南池袋2-41-4

顕本法華宗
 妙学山 本教寺





 本教寺には『歌川豊春墓』、『服部嵐雪墓』があります。


所在地 豊島区南池袋2-41-4 (本教寺)

 服部嵐雪墓
 江戸時代の中期の俳人で雪門の祖である。幼名は久馬之助、江戸湯島に生れたといわれるが出生地については異説が多い。通称を彦兵衛と称した。新庄隠岐守、井上相模守に仕えたがのちに仕を辞し、済雲和尚に従って禅を学び松尾芭蕉の門に入り黄落庵、石中堂、寒蓼堂、雪中庵、不白軒、玄峰堂などの号がある。彼は蕉門十哲の一人で、榎本其角と並び称せられ、名は広く知られた。芭蕉の死後、其角と江戸俳壇を二分し、門下に有名な俳人を多く輩出している。著書には「其袋」「或時集」「杜撰集」「若水」などがある。宝永4年(1707)10月13日、54歳で没した。初め本郷駒込の常験寺に葬り、大正8年(1996)に改葬された。
 平成10年(1998)3月建設 東京都教育委員会

 


所在地 豊島区高田新宿区



   面影橋
 目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。
 橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靭負(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が、数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げた時にうたった和歌から名付けられたという説などが知られています。
 なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります。

 


所在地 豊島区駒込7-2-4

浄土宗
 正業山 専修院 迎接寺
     (伊藤伊兵衛屋敷跡) 

専修院は、元和3年(1617)に(一説に慶長2年〔1597〕)、開山である得蓮社業誉上人迎阿弁教和尚が江戸の浅草新寺町(現台東区松が谷1丁目)に創立した浄土宗の寺院であり、正式には正業山専修院迎接寺という。本尊は阿弥陀如来である。
 その後、東京府による市区改正事業のため、明治41年(1908)に浅草区北松山町61番地から北豊島郡巣鴨町大字上駒込字染井888番地(現在地)に移転し、現在に至っている。
 この土地は、江戸時代に多数の植木屋が集住していた上駒込村染井を代表する伊藤伊兵衛の屋敷跡と考えられ、平成9年(1997)4月から6月にかけて実施された埋蔵文化財発掘調査では、おもに植木屋が繁栄した江戸時代後半の遺構が発見された。建物の礎石や地下室のほか、溝や生け垣を何度も作り直した跡などがあり、広い敷地の中を区切って利用していた様子がうかがえる。さらに、縄文土器も出土しており、周辺に縄文時代の遺跡が広がっていることも確認された。
 境内には、伊兵衛に関係するとみられる寛永18年(1641)造立の宝篋印塔をはじめ、乾元2年(1303)造立の板碑、富士講先達の元祖である藤原角行や浄瑠璃の富本節家元である富本豊前掾代々の墓など、多くの貴重な文化財が残されている。
 平成11年(1999)3月 東京都豊島区教育委員会




 専修院には『富本豊前掾代々の墓』、『板碑』、『藤原角行墓』、『フレッド・シー・シャーマン墓』、『宝篋印塔』があります。


所在地 豊島区駒込7-2-4 (専修院)

 フレッド・シー・シャーマン墓
昭和50年(1975)4月29日歿79歳
佛光印紫山平等沙満居士

故F.Cシャーマン先生は昭和24年(1949)12月来日されてより27年の長きにわたりお茶の水の地にて無料歯科診療、英会話、料理教室など日本人のためにつくされました。
こよなく愛された日本の地に先生の魂のやすらかなることをお祈り致します。





所在地 豊島区駒込7-2-14

顕本法華宗
 法林山 蓮華寺



 蓮華寺には『夏目成美墓』があります。


所在地 豊島区駒込7-4-14

臨済宗妙心寺派
 萬年山 勝林寺





 勝林寺には『田沼意次墓』、『浅尾藩蒔田家墓所』があります。

 


所在地 豊島区高田2-12-39

真言宗豊山派
 神霊山 金乗院 慈眼寺
 本尊
正観世音菩薩 目白不動明王
 開基
永順和尚 文禄3年(1594)寂
 総本山
長谷寺 奈良県桜井市初瀬
 祖師
宗祖   弘法大師(空海)
中興祖  興教大師(覚鑁)
派祖   専誉僧正







 目白不動尊
 金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は文禄3年(1594)6月であることから、それより以前、天正年間(1573~1592)の創建と考えられます。当初は蓮華山金乗り院と称し、中野宝仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺となりました。
 江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和20年(1945)4月の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失しました。現在の本堂は昭和46年(1971)に再建され、平成15年(2003)に前面改修されました。
 目白不動堂(東豊山淨滝院新長谷寺)は、元和4年(1618)大和長谷寺第4世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和20年(1945)5月の戦災により焼失したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移しました。
 目白不動王は、江戸守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白の号は寛永年間(1624~1644)に3代将軍徳川家光の命によるといわれています。
 墓地には、槍術の達人丸橋忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文6年(1666)造立の倶利伽羅不動更新塔をはじめ、寛政12年(1800)造立の鍔塚など多くの石造物があります。
 平成19年(2007)3月 豊島区教育委員会








 金乗院には『丸橋忠弥墓』、『青柳文蔵墓』、『倶梨伽羅不動庚申塔』、『鐔塚』、『庚申塔』があります。


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