東京都豊島区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 豊島区南池袋2-41-4 (本教寺) 服部嵐雪墓 江戸時代の中期の俳人で雪門の祖である。幼名は久馬之助、江戸湯島に生れたといわれるが出生地については異説が多い。通称を彦兵衛と称した。新庄隠岐守、井上相模守に仕えたがのちに仕を辞し、済雲和尚に従って禅を学び松尾芭蕉の門に入り黄落庵、石中堂、寒蓼堂、雪中庵、不白軒、玄峰堂などの号がある。彼は蕉門十哲の一人で、榎本其角と並び称せられ、名は広く知られた。芭蕉の死後、其角と江戸俳壇を二分し、門下に有名な俳人を多く輩出している。著書には「其袋」「或時集」「杜撰集」「若水」などがある。宝永4年(1707)10月13日、54歳で没した。初め本郷駒込の常験寺に葬り、大正8年(1996)に改葬された。 平成10年(1998)3月建設 東京都教育委員会 所在地 豊島区南池袋3-18-18 日蓮宗 威光山 法明寺 この梵鐘は銘によれば寛永二廿庚申年(1645)12月、当山十一世蓮成院日延上人の代に鋳造されたが、その後破損し、享保17壬子年(1732)11月、廿四世本量院日達上人の代に再鋳されたものと記されている。 その下縁に曲尺、枡、天秤、算盤等の江戸時代の庶民生活を表す用具が図案化されて陽鋳されている為に、昭和19年(1944)7月6日付で文部省より重要美術品の認定を受け、戦時下の金属供出をまぬがれた。 竜頭までの高さ六尺、外径三尺、厚さ二寸、乳敷は総計百八でいわゆる百八煩悩を象徴している。 昭和20年(1945)4月13日の戦災によって、境内の諸堂宇と共に墓地内にあった鐘楼堂は焼失したが、昭和43年(1968)、現董四十八世一厚院日悠上人により、中門の再建に伴い、新たにこの地をトして移築され、その警覚を響かせることとなった。 威光山法明寺 法明寺には『あさがお塚』、『花塚』、『幽顯の塔』、『梵鐘』、『安国堂』、『威光山稲荷堂』、『橘家円喬墓』、『小幡景憲一族の墓』、『内藤政貞後室の墓』、『楠公息女墓』、『豊島氏墓』、東墓地には『越後新発田城主 溝口直溥墓』、『安藤家墓所』、『3代目中村富十郎墓』があります。 所在地 豊島区南池袋3-18-25 (法明寺) 威光山稲荷堂 當山総鎮守開運威光稲荷尊天は西暦八百余年 慈覚大師當地に行脚の途中武蔵野の地雑司ヶ谷の森より一条の光明を見つけ、辿りついたる所に素晴しい御姿をした 稲荷尊神が現われ、その光明の強き事から、威光稲荷大明神と銘名し堂宇を建立し御安置したのが始まり也。その後星霜数百年を経て日蓮宗に法明寺が改宗されると同時に法華経の御題目が唱題され、その御威光益々輝き、爾来今日迄大願をかえて救われたる善男善女数知れず。■■■本田は戦災にて焼失し、仮宮にて御祀りしてあった。御■■も時機を得て東京都板橋区天原町に住む石川幸作氏を選びて壱墓建立なさしめ、堂内荘厳具は開元講を始めとして一般信徒に託して、内に御威光秘めたる荘厳なる本殿に変り今日の隆盛を見るに至れる。善男善女の祈願満足、福智圓満の天願叶う可く生まれ変りたる稲荷尊神堂の所以を、茲に録じ後葉にこの事蹟を傳んと欲畢 昭和50年(1975)9月吉日 威光山四十八世 一厚院日悠 光専天番司 中島光民 |
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永山
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