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東京都豊島区の歴史
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所在地 豊島区南池袋3-17 (法明寺)

 豊島氏墓
豊島氏は平安朝の末期から、鎌倉、室町時代にかけてこの辺り、武蔵の地一帯にかけて勢力をもっていた一族であるが、文明10年(1478)太田道灌に改め落された。その生き残りの一族の中で後、徳川氏に仕えて八丈島の代官になった豊島忠次(1643没)を中心にその一族の墓である。
 昭和49年(1974)3月30日 豊島区教育委員会



 豊島家は桓武天皇の皇孫高望王を始祖とし豊島次郎武帝始めて豊島姓を名のる。源頼家に仕へ前9年の役に出陣、豊島康家八幡太郎義家に従い後三年の役に出陣、豊島清光保元の乱以来交際のある源頼朝に仕へ信任に應へ鎌倉幕府開設に盡力す。一族は平安朝末期より室町中期に至る約400年間現在の東京都豊島・練馬・足立・板橋・荒川・北・文京・台東の諸区を所領としその周辺一帯に勢力をのばしていた。然るに文明年間泰経の代に足利氏の内輪もめに巻き込まれ扇谷上杉家と戦う羽目になり敵将太田道灌との江古田原沼袋の合戦に敗れ全滅その後一族中生き残りの豊島忠次は旗本として徳川家康に仕う、泰利を経て泰盈の時、享保5年11月武州王子熊野社別当宥相の望みに依り家系略(金輪寺本豊島系図)を奉納その際家蔵往昔系図旧記は頗る乱雑故之を整理し子孫及一族のため系譜一巻(泰盈本豊島系図)を伝う以後数代を経て豊島作兵衛泰道の代に至り徳川幕府は瓦解一時知行地千葉県木更津市小原半兵衛氏方に滞留し明治維新を迎える。
豊島作右衛門忠次(菩提寺威光山法明寺)
 永禄7年(1564)豊島経忠の長男として関東武蔵の国豊島郡に生る。天正19年(1591)遠州及江州徳川幕府直轄天領代官在任中滋賀県亀岡・松岡の両山間部を利用し広大な灌漑用水地を創設早田四十余ヘクタールをうるほす難工事に領民と共に取り組み完成す。寛永15年(1638)八丈島代官を勉む。寛永20年(1643)癸未2月13日没、80才。法名法善院日養
 白井平兵衛尉勝久(豊島経忠の孫弥母氏徳川家継生母月光院付大年寄絵馬の祖父)寛文12年7月23日没、法名高雲院日勝(宗圓)明治23年(1890)2月当主信雄雑司ヶ谷法明寺の墓碑を整理し豊島家先代々合葬儀の際、了達院殿義勇日進居士(俗名豊島作兵衛泰道)夫妻を改葬す。
 昭和60年(1985)5月墓地を整備し先祖代々の追善供養を行う。




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