忍者ブログ
東京都豊島区の歴史
[254] [255] [256] [257] [258] [259] [260] [261] [262] [263] [264]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在地 豊島区北大塚1-7-3

 菅原神社
 御祭神
菅原道真公
平安朝宇多天皇時代の人(845~903) 
政治家、学者そして歌人
 鎮座
室町時代 天文年間(1532~1555)
 大祭
毎年5月25日
 由緒
室町時代天文年間に巣鴨保坂氏の祖先、仁平(にだいら)三河守盛義(新編武蔵風土記稿巣鴨村の項参照)が三河の国から(一説には京都から)この巣鴨の地に来て、当神社の西方低地谷端川のほとりに陣屋と称する家屋敷を構え、巣鴨村立始の住人となって(駒込圓勝寺の墓石参照)土地の開墾に勤め、同時に屋敷の東西南北の小高い場所に神々を祭って屋敷神とした。北は氷川神社(北大塚1丁目38番地8号の辺り)、南は熊野神社(南大塚2丁目39番5号の辺り、現在は天祖神社内に移る)、西は稲荷神社(北大塚1丁目15番5号の辺り、又は同2丁目33番の辺り)、そして東に■■したもんが菅原道真公を祭るこの神社であり、最も広く、明治時代■■■下の道迄1,120坪の境内地を擁した。盛義は元亀2年(1571)に没し、その子は武士をやめて姓を保坂と改め、代々徳右衛門と■■■■になり、やがて江戸に徳川幕府がおかれ、中山道の往来がしげくなるにつれ、陣屋をすてて中仙道筋に移り、永く増上寺領巣鴨村の名主を勤めた。保坂氏の子孫は絶えることなく、当神社への奉仕を続けて懇意地に至っている。尚、この辺一帯の土地を天神山と唱えるのは、この御宮に由来するものであり、社号に子安の二字を冠するのは子育ての意味である。当神社は江戸時代の江戸惣鹿子名所大全、須原屋版分間大絵図等にも登載され、江戸名所図会の巣鴨真性寺の遠景にも描かれている。
 平成16年(2004)5月 菅原神社






PR

コメント


コメントフォーム
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字


忍者ブログ [PR]
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性