東京都豊島区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 豊島区西巣鴨4-8-28 (妙行寺) お岩様墓所 お岩様g、夫伊右衛門との折合い悪く病身となられて、その後亡くなったのが寛永13年(1636)2月21日であり爾来、田宮家ではいろいろと「わざわい」が続き、菩提寺妙行寺4代日遵上人の法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれた。 この寺も当時四谷にあったが、明治42年(1909)に現在地に移転した。 お岩様に塔婆を捧げ、熱心に祈れば必ず願い事が成就すると多くの信者の語るところである。 所在地 豊島区巣鴨5-35-37 (すがも平和霊園) 磯村英一先生顕彰碑 先生は、1903年東京で生まれ、東京帝国大学卒業後、東京市に奉職、民生局長等を経て東京都立大学教授、東洋大学教授・学長を歴任。都市問題、人権問題の専門家として幅広く活躍。地域改善対策協議会会長を、90歳まで務め、引きつづき財団法人地域改善啓発センター理事長に就任。生涯、同和問題解決へ向けて尽力をつづける一方、核禁会議議長として平和運動にも大きな影響を与えた。勲章は断りつづけたが、平成4年(1992)名誉都民章なあびに東京都目黒区名誉区民章を授章。少子高齢型社会の到来に向け、「もやい運動」を提唱。1990年東京・巣鴨に「もやいの碑」を建立、「もやいの会」を創立、生涯会長を務めた。先生は、整然『僕の亡骸よりも、と大切な名誉都民章・名誉区民章を「もやいの碑」に納めることで、永遠に会員の皆さんと仲間でありつづけられる』と遺言されていた。その意を体し「もやいの会創立十周年」にあたり、先生の遺徳を顕彰し、ここに石碑を建立した。 平成12年(2000)12月8日 もやいの会 会長神作光一 所在地 豊島区巣鴨5-35-37 (すがも平和霊園) 平和祈念碑 大東亜戦争末期の昭和20年(1945)3月4日、午前9時30分、東京都豊島区巣鴨5丁目45番地の防空壕に直撃弾が投下され、伊藤淑子ちゃん(9歳)、登美子ちゃん(5歳)、恵美子ちゃん(2歳)の3人の幼い生命が一瞬の間に奪われました。 この平和祈念碑は、漫画家の富永一朗先生が、3人の幼い子供をモチーフに、世の中がいつまでも平和であり続けることを願って原画を奉納して下さったもので、すがも平和霊苑のシンボルになっています。 岡崎 鳥山石材店 彫刻 鳥山和久 所在地 豊島区南大塚2・文京区 文京区立 大塚公園 御祭神 宇加之御魂大神 豊川茶枳尼天 住好稲荷権現 御創建 明治43年(1910)6月 当社は松平家の下屋敷邸内社として鎮座されしもので久蔦作左衛門之を祀る 当地は渋澤榮一市長の時市の所有となり社も残置され戦後は文京区の管理に移り荒廃せるも地元崇敬者相集い勧請し之を継承社の復興に努力し今日に至る 御例祭 毎年2月執行 御神徳 信者の開運火防を始めとして交通安全事業繁栄招福除災学業増進諸願成就等御霊験灼らたかにして御神徳をいただくもの多し 昭和61年(1986)11月 奉献 勧請者代表 神官 古塚真祥 大塚公園には『大塚地蔵尊』、『露壇』、『文京区ラジオ体操発祥の地』、『住好稲荷神社』があります。 所在地 豊島区雑司が谷1-32-5 菊池寛旧居跡 菊池寛は、明治21年(1888)12月26日に香川県高松市に生まれた。戯曲「父帰る」、小説「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などの作品で文壇の地位を確立した。その後、大正12年(1923)に雑誌「文藝春秋」を創刊、昭和10年(1935)芥川賞・直木賞を創設するなど、後進の育成のも尽力し、文壇の大御所と言われた。 寛は大正12年(1923)以来、当地から程近い雑司ヶ谷金山に居住していたが、昭和12年(1937)に当地に転居、晩年までここで過ごした。昭和23年(1948)3月6日没。 「不実心不成事 不虚心不知事」 (実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず)は、寛の座右の銘として知られている。 平成11年(1999)11月 東京都豊島区教育委員会 所在地 豊島区雑司が谷1-37-11 千石興太郎記念碑 千石興太郎氏は1874年東京に生れ 札幌農学校を卒えた後県農会県議師を経て産業組合中央に迎えられ 同会々頭全国購買組合聯合会々長を始めとして数多くの産業組合全国機関の要職を歴任し その間貴族院議員に勅選せられ東久邇内閣の農林大臣に就任する等77年の生涯を農業農民の発展に捧げた 氏は 資性剛毅人情に厚く時勢を洞察するに明敏 事に処するに果断 その清新明朗なる人格は 大衆運動の指導者としての天資にめぐまれ 振興刷新期より拡充発展期の産業組合運動の中枢に在って 常にその推進の原動力となり わが国共同組合運動発展の礎を固めた第一人者である 晩年この地に居を定め 1950年8月22日この地において逝去す われら氏の遺徳を追慕するものたち相諮り この由縁の地を永く記念するためこの碑を建立するものなり 昭和42年(1967)8月22日 千石興太郎記念碑建設委員会 所在地 豊島区雑司が谷3-19-14 (本納寺) 乙字句碑 作者の大須賀乙字は高浜虚子とともに正岡子規の双璧をなした河東碧悟桐の門下で「碧門の三羽の鴉」として活躍した俳人です。いつの頃か本納寺で開かれる句会に乙字も参加しており、乙字7回忌の時にゆかりの場所として当時の仲間達によって建てられたのがこの句碑です。 所在地 豊島区雑司が谷3-19-14 (本納寺) 錦風居士句碑 夜は雪の明るさをもつ櫻哉 錦風居士 勝峯晋風氏が亡父の句を自ら書いたもので、左下に晋風書と彫られています。 勝峯晋風(かつみねしんぷう1887~1954) 本名は晋三。俳人であり俳文学者。新聞記者生活15年を経て、大正12年(1923)の関東大震災以降は俳諧の研究や著述に専念するようになった。俳句ははじめ錦風(きんぷう)に学び、のちに伊藤松宇の教えも受けた。松宇主催の俳誌『黄燈』を創刊した俳文学に関する編集・著述多く、俳諧研究に大きな足跡を残した。 所在地 豊島区雑司が谷3-19-14 (本納寺) 句碑(月花塚) 今宵見る月の外にもさかつきに みちてこほるるさけもまたよき 信仁亭月和孝 花のみか酒さえあるかおもしろし ゆめのよし原夢の世の中 花信亭明鐘起 これは狂歌を好んだ雑司が谷在住の茗荷屋沖右衛門(雅号を鹽梅舎辛伎)が両人の早世を悼み、社中の仲間に呼びかけて建立したものです。これが完成した時には追悼の狂歌会が盛大に催されたそうです。またこの碑の筆をとたのは、芭蕉や西鶴、近松とともに江戸文学の担い手として名をはせた太田蜀山人(1749~1823)です。 |
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永山
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