東京都豊島区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 豊島区北大塚1-7-3 菅原神社 御祭神 菅原道真公 平安朝宇多天皇時代の人(845~903) 政治家、学者そして歌人 鎮座 室町時代 天文年間(1532~1555) 大祭 毎年5月25日 由緒 室町時代天文年間に巣鴨保坂氏の祖先、仁平(にだいら)三河守盛義(新編武蔵風土記稿巣鴨村の項参照)が三河の国から(一説には京都から)この巣鴨の地に来て、当神社の西方低地谷端川のほとりに陣屋と称する家屋敷を構え、巣鴨村立始の住人となって(駒込圓勝寺の墓石参照)土地の開墾に勤め、同時に屋敷の東西南北の小高い場所に神々を祭って屋敷神とした。北は氷川神社(北大塚1丁目38番地8号の辺り)、南は熊野神社(南大塚2丁目39番5号の辺り、現在は天祖神社内に移る)、西は稲荷神社(北大塚1丁目15番5号の辺り、又は同2丁目33番の辺り)、そして東に■■したもんが菅原道真公を祭るこの神社であり、最も広く、明治時代■■■下の道迄1,120坪の境内地を擁した。盛義は元亀2年(1571)に没し、その子は武士をやめて姓を保坂と改め、代々徳右衛門と■■■■になり、やがて江戸に徳川幕府がおかれ、中山道の往来がしげくなるにつれ、陣屋をすてて中仙道筋に移り、永く増上寺領巣鴨村の名主を勤めた。保坂氏の子孫は絶えることなく、当神社への奉仕を続けて懇意地に至っている。尚、この辺一帯の土地を天神山と唱えるのは、この御宮に由来するものであり、社号に子安の二字を冠するのは子育ての意味である。当神社は江戸時代の江戸惣鹿子名所大全、須原屋版分間大絵図等にも登載され、江戸名所図会の巣鴨真性寺の遠景にも描かれている。 平成16年(2004)5月 菅原神社 所在地 豊島区西巣鴨3-20-1 大正大学 この正門は、本学の前身である宗教大学『大正15年(1926)大正大学と改称』がこの地に設けた本館の正面の車寄せをモデルとしています。明治41年(1908)に建設された本館は、中央に高さ15メートルにもおよぶバロック風の角型ドーム屋根の講堂を置き、左右対称に教室をのばした、全長60mの壮大な洋風木造建築でした。校舎は昭和43年(1968)解体されましたが車寄せは『登録有形文化財』として博物館明治村(愛知県犬山市)に移築保存され往時の雰囲気を今につたえています。 所在地 豊島区巣鴨4-35-1 巣鴨庚申塚 江戸時代に書かれた紀行文の「遊歴雑記」に当庚申塚を次のように書いている。 「武州豊島郡巣鴨庚申塚は江戸より板橋の駅に入る立場なりよしず囲いの茶店あり団子茶屋と称す。 石碑を見るに明暦3年(1657)と彫られ、又古老からの聞き書きとして文亀2年(1502)に塔を建立高さ八尺なり然るに明暦3年(1657)正月世にいう振袖火事の大火おこり江戸市中九分通りを焼き払う、復興資材をひさぐものひきもきらず、たまたま当庚申塔に立懸けたる竹木倒れ石碑四つ五つに砕けたり、故に村中相議し丈を縮めて今の塔を再建し、文亀2年(1502)の碑を塚の下に埋めたりと言い伝えを物語る、されば巣鴨庚申塚というは文化12年(1815〔遊歴雑記発行年〕)に至りて314年に及ぶ、故に庚申塚とてその名高し」と書かれている。 又、長谷川雪且の描いた江戸とその近郊の絵入り地誌「江戸名所図会」にはこの庚申塚に中山道の浮世絵にも当地の描写があり、付近の賑いが見られる。 庚申様を神として祭ったのがいつの頃か判然としないけれども、神社といては伊勢皇太神宮の一角に大きな区画を占めて猿田彦神社があり、神宮は猿田彦の先導により開かれたと称されている。このへんから道祖神との関連も結びつくようである。神道による庚申信仰も相当の歴史をもって受け継がれて来たのであり、当「巣鴨猿田彦大神庚申堂」もその好例であろう。 前述のように文亀2年(1502)に建てた「庚申待供養板碑」は破損し明暦3年(1653)に作り直したものが現在御本殿に祭る「庚申塔」である。 戦前は町会事務所なども合築された堂宇であったが戦災で焼失、その為この石碑の文字も判読しにくいが、江戸時代の庶民信仰と地域の歴史を知る上で大切なものとして豊島区の登録文化財にもなっている。 ところで、庶民の間に庚申講が盛んになった頃、「庚申待ち」という集まりが行われ、庚申の日に夜を徹して来世の幸福を願って天帝に祈り酒食を持ち寄って賑やかに過す、という祭りが流行した、今はすたれたけれども当更新堂にもその名残りが偲ばれる。 昭和46年(1971)に御本堂を再建し、以後昭和49年(1974)には御水舎、平成3年(1991)には山門も形を整え荘厳さを増して、参拝の方々に喜ばれている。 年に6~7回、庚申の日にはお祭りをして多くの信仰者を迎えている。 御祭神は左の通りである。 地津主 甲子大巳貴神 道祖神 関 寿命神 天津祖 庚申猿田彦大神 金神 連 塩竃神 人津霊 巳己少彦名神 幸神 船玉神 平成4年(1992)6月吉日 巣鴨猿田彦大神庚申堂 奉賛会 庚申塚由来記 全国的に有名な巣鴨の庚申塚にあった庚申塔は、高さ八尺で文亀2年(1502)造立、現存していれば区内最古の石碑。 昔、巣鴨の庚申塚は中山道の本街道であり、板橋宿の一つ手前の立場として上り下りの旅人の往来が激しく、休息所として賑わい簡単な茶店も在り、人足や馬の世話もした。 広重の絵にも描かれ江戸名所図絵で見ると茶屋に人が休み、人足の奪い合いをしている旅人もいて賑やかである。 ここに団子などを売る茶店もできて藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で、花の頃は小林一茶も訪れて、 ふじだなに ねて見てもまた お江戸かな の句もある。 平成22年(2010)3月吉日 巣鴨庚申塚には『「江戸の名所」碑』、『榎本留吉翁顕彰碑』があります。 所在地 豊島区巣鴨4-35-1 (巣鴨庚申塚) 「江戸の名所」碑 巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷近在に聞こえた名所でした。江戸と板橋宿との間にあり行き交う旅人たちで賑わっていたと伝えられ、その様子は「江戸名所図会」にも描かれています。現在では、特に庚申の日ともなると、近くの「とげぬき地蔵(高岩寺)」の縁日(毎月四の日)と同様に多くの参拝者があります。庚申塚では町内会の人たちが、参拝者に対し、季節ごとに趣向をこらした食事を作ってもてなしています。 「江戸名所図会」のなかの茶店の屋根の葭簀(よしず)の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座し、その銘文によれば1657年(明暦3年)に造立されたものということがわかります。これより以前、1502年(文亀2年)に造立されたといわれる石碑がありましたが今はなく、「遊歴雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えています。 また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、これは、この巣鴨近辺の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神を分祀したという歴史的事実によるものです。 平成4年(1992)3月 豊島区教育委員会発行(石造文化財より) 巣鴨猿田彦大神(庚申堂)奉賛会世話人 庚申塚町会 榎本泰吉 太田義高 三島喜久蔵 仲村喜一 成田弥広 小原精重郎 高森ひさ 鈴木敏一 浦野保男 大野勇 門叶粂吉 岡田健次郎 土屋志づ子 藤田りん子 千原和子 田中長太郎 栄和町会 神谷正夫 竹本正義 福本吉太郎 大久保信 石山公一 小島良昌 大塚元之 御菩薩池花枝 大塚シヅ 巣鴨4丁目協和町会 名取賢一 久保田友永 加藤吉太郎 遠山宏 忍田雅之 上村徳之助 照内義雄 広瀬重達 杉山鈴谷 井上好尉 山内雅晴 池田尚弘 中村和子 君島つや子 折戸協和町会 佐野隆光 山田和夫 前田隆司 尾見誠一 井澤清 鈴木健三郎 池田金之助 前田寿美子 寿川冨美子 奉賛会 会長 榎本泰吉 天祖神社 宮司 高島俊彦 大滝教会 代表 飯島寿門 所在地 豊島区巣鴨4-35-1 (巣鴨庚申塚) 榎本留吉翁顕彰碑 榎本留吉翁は、明治32年(1899)庚申塚に生をうけ、戦前、戦後を通じ、町会長として、庚申堂の奉祭につとめ戦災により焼失した堂宇を、昭和46年(1971)桧づくりい再建、昭和49年(1974)、手水舎を設ける等、境内整備につくした。これらは60余年に亘る翁の郷土愛のたまものであり、茲にその功績を賛へ、顕彰するものである。 昭和60年(1985)9月吉日 猿田彦大神奉賛会 天祖神社 宮司 高島俊彦書 真島泰峨文 石治刻 所在地 豊島区南大塚1-26-10 真言宗豊山派 観光山 慈眼院 東福寺 真言宗豊山派に属し、観光山と号す。創建の年代は明らかでないが、永禄5年(1562)に良賢和尚が中興したと伝えられている。初め小石川大塚にあったが、元禄4年(1691)に当地へ移ってきた。本尊は十一面観世音菩薩であり、ほかに薬師如来がある。 山門前医師団の左右には、道標の役割をも兼ねる明治37年(1904)庚申塔、明治43年(1911)の疫牛供養塔などがあり、境内には山門脇に十羅刹女神を祀る堂がある。これ江戸時代、現在の天祖神社の地に祀られ、巣鴨の総鎮守であった。しかし、明治の神仏分離令によって十羅刹女神は福蔵寺の所有となり、その後、福蔵寺が火災で焼失し東福寺に合併したので、東福寺のものとなった。これは昭和30年(1955)まで天祖神社に隣接した場所に置かれていたが、同年、東福寺の境内に移された。 墓地には守山藩(陸奥田村郡)の儒学者戸崎淡園の墓があり、甲冑帯刀した武士が床几に腰をおろした像を刻んだ遅塚928の碑もある。 昭和57年(1982)1月 東京都豊島区教育委員会 東福寺には『戸崎淡園墓』、『遅塚九二八の碑』、『十羅刹堂』、『疫牛供養塔』、『庚申塔』があります。 所在地 豊島区南大塚2-27-1 (大塚南公園) 都電6000型6162号車 1、都電の兄弟たち 都電は、東京都交通局が走らせています。 交通局には、都電荒川線のほかに都営地下鉄線があります。 浅草線・三田線・新宿線の三路線です。また、道を行く都バスも仲間です。 皆さんも乗ったことがあるでしょう。 2、都電荒川線の歴史を見てみましょう。 東京でただ一か所となった都電荒川線は、現在一日延6万5千人の都民の皆様が利用しております。 荒川線が誕生したのは、明治44年(1911)です。この年、王子(飛鳥山上)-大塚間が開業しました。 当時は、私鉄の王子電気軌道という会社で運行されており、長い間『王電』の呼び名で親しまれていました。 この『王電』は、昭和17年(1942)に東京市に移管され『市電』と名前が変わり、昭和18年(1943)の東京都制施行により『都電』と呼ばれるようになりました。 昭和37年(1962)の頃には、東京都内200km以上もの都電の線路が網の目のようにありました。 その後、自家用車の増加や地下鉄の開通により、都電の多くの路線が次々に廃止されました。三ノ輪橋-赤羽間および荒川車庫-早稲田間も廃止予定でしたが、路線の大部分が専用軌道であること、地域住民の強い要望などにより王子駅前-赤羽間のみ廃止し、他は残すこととなりました。 そして昭和48年(1973)には、二つの路線をつなぎ、三ノ輪橋-早稲田間として12.2kmを一本化し名前を『都電荒川線』と改め、現在にいたっています。 3、この電車の大きさと生い立ち 6000形の車両は、現在荒川車庫で応急車として残されている6152号車以外は昭和53年(1978)4月27日付ですべて廃車となりました。 形式 6000形 番号 6162号車 大きさ 長さ12.3m 幅2.21m 高さ3.66m 重さ 16.0t モーター 38kWが2個 定員 96人(座席30人) 製造年月日 昭和24年(1949)7月21日 配属車庫 昭和25(1950).10.16 青山車庫 昭和42(1967).12.10 大久保車庫 昭和43(1968).05.26 荒川車庫 昭和45(1970).03.27 錦糸堀車庫 廃車 昭和46年(1971)3月20日 公園設置 昭和46年(1971)5月01日 4、現在の荒川線の車両 形式 7000形 7000形冷房車 車両数 10両 23両 大きさ 長さ12.5m 幅2.2m 高さ3.7m 重さ 15.5t(冷房車16.5t) モーター 60kWが2個 定員 96人(座席24人) 最高速度 時速40.0km 形式 7500形 7500形冷房車 車両数 1両 13両 大きさ 長さ12.5m 幅2.2m 高さ3.9m 重さ 16.5t モーター 60kWが2個 定員 96人(座席24人) 最高速度 時速40.0km (他に6000形〔6152〕及び8500形が1両ずつで合計49両) 平成3年(1991)1月1日現在 資料提供 東京都交通局 所在地 豊島区西巣鴨4-8-25 天台宗 薬王山 廷寿院 善養寺 善養寺は、天長年間(824~833)に、開基である慈覚大師が上野山内に創立したと伝えっれる天台宗の寺院で、正式には薬王山延寿院善養寺という。東叡山寛永寺の末寺で、本尊は薬師如来像である。 江戸時代の寛文年間(1661~1672)に下谷坂本(後の下谷区善養寺町、現台頭区上野公園)に移転した後、境内地が鉄道用地の拡張にかかるということで、明治45年(1912)に北豊島郡巣鴨村大字巣鴨字庚申塚347番地(現在地)へ移転し、現在に至っている。 本堂には高さ約3メートルの木造閻魔王坐像(豊島区登録有形文化財)が鎮座し、広く信仰を集めていることから「おえんまさまの寺」とも呼ばれ、また、杉並区松ノ木3丁目に所在する華徳院、新宿区新宿2丁目に所在する太宗寺とともに、江戸三大閻魔の一つとしても親しまれてきた。 境内には、寛永6年(1629)造立の石燈籠をはじめ、延宝8年(1680)の駒型庚申塔、天明8年(1788)の宝篋印塔、また江戸時代中期に陶工・絵師として活躍した尾形乾山の墓(東京都指定旧跡)や、フランスでジュリオ・キュリー教授(キュリー夫人の娘婿)の指導を受けた原子物理学者湯浅年子の墓など、多くの貴重な文化財が残されている。 平成14年(2002)3月 東京都豊島区教育委員会 閻魔堂 善養寺には『尾形乾山墓・碑』、『湯浅年子墓』、『武蔵川喜偉之』、『宝篋印塔』、『茶釜碑』、『茶釜塚』があります。 所在地 豊島区西巣鴨4-8-25 (善養寺) 湯浅年子墓 国際的に活躍した日本女性初の物理学者 1909年東京に生まれる。東京文理科大学卒業後、1940年渡仏。ショリオ=キュリー夫妻に師事して原子核の実験的研究を開始。1943年フランス国家理学博士。大戦のため1945年帰国。母校・東京女子高等師範学校教授として後進の育成、お茶の水女子大学の設立に尽力。1949年再渡仏。以降フランスの原子核研究所にあって、β崩壊、原子核反応、少数核子系などの最先端の問題に挑戦、その優れた業績により世界的地歩を築いた。また日仏の研究協力に努めて学術交流に貢献した。比類なき行動力、溢れるばかりの知性と感性は人々を魅了し、その深い真情・思索に満ちた著作と、広い交友により、日仏の文化交流にも大きな足跡を残した。 1980年パリに没す。享年70歳。 紫綬褒章・勲三等瑞宝章受章 2001年6月 有志一同 淡雪の あはさにきゆる 霧の跡 ながある刹那を 我がとこしへに 年子 1950年のノートより臨模 |
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永山
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