東京都豊島区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 豊島区南池袋4-25-1 東京都立 雑司ヶ谷霊園(御鷹部屋跡) 御鷹部屋と松 このあたりには、江戸時代中期の享保4年(1719)以降、幕府の御鷹部屋がありました。 御鷹部屋には、鷹匠頭をはじめ目付、同心など常時7、80名がおり、鷹狩りに用いる鷹の飼育や訓練などを行っていました。 また、鷹狩りの際には、将軍が立ち寄って休息したり、食事をとったりしたこともあったようです。 御鷹部屋敷地内には松の木がありました。この松の木は、投じのようすをしのばせてくれます。 雑司ヶ谷霊園には『ジョン万次郎墓(中濱万次郎墓)』、『永井荷風墓』、『金田一京助墓』、『竹久夢二墓』、『泉鏡花墓』、『サトウハチロー墓』、『小泉八雲墓』、『ラファエル・ケーベル墓』、『夏目漱石墓』、『羽仁もと子墓』、『岩瀬忠震墓』、『喜多村緑郎墓』、『金子馬治墓』、『小栗忠順墓』、『森田草平墓』、『成島柳北墓』、『大塚楠緒子墓』、『中村是公墓』、『窪田空穂墓』、『中村是公墓』、『島村抱月墓』、『萩野吟子墓』、『網島梁川墓』、『武林無想庵墓』、『東儀鉄笛墓』、『』、『』、『』、『』、『』、『』があります。 御鷹部屋と松 PR 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) サトウハチロー墓 ふたりでみると すべてのものは 美しくみえる サトウハチロー サトウハチロー(1903~1973) 戦前の「二人は若い」、戦後の「リンゴの唄」の流行歌で圧倒的な人気を生んだ詩人。若い日の無頼を心配した小説家の父紅緑は、現在の豊島区上池袋3丁目に世帯を持たせた。ラジオドラマ「君の名は」の脚本家菊田一夫も同居。 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) ジョン万次郎墓(中濱万次郎墓)(1827~1898) 土佐(高知県)中浜村の出身。14歳での出漁で遭難し、アメリカ船に助けられ米国に渡る。米国で航海術などを学び、その新知識と英語力で重用され、通訳としても活躍。 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) ラファエル・ケーベル墓 指定 昭和29年(1954)11月3日 ケーベル(1848~1923)はドイツ系ロシヤ人で、モスクワで音楽を学んだのち、イエナやハイデルベルグで哲学、文学を学んだ。明治26年(1893)招かれて東京大学講師となり、21年にわたりドイツ文学、ラテン語などを講じ、かつ、東京音楽学校でピアノを教えた。ケーベルは超越的汎神論によって日本の学界に大きく影響を与え、さらには日本の哲学が学問として確立するための基礎を与えた。ギリシヤ古典をはじめとする西欧的教養への紹介は多くの感化をもたらし、高山樗牛、阿部次郎、安倍能成、和辻哲郎、九鬼周造らを育て、日本の近代文学の形成に寄与した影響は大きい。大正12年(1923)6月14日横浜で死去。年75著書「ショーペンハウエルの哲学」「ケーベル博士小品集」などがある。 昭和44年(1969)10月1日建設 東京都教育委員会 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) 羽仁もと子墓(1873~1957) キリスト教徒として、西池袋に新しい教育を目指して自由学園を創立。当時の校舎、明日館(みょうにちかん)はフランク・ロイド・ライトの設計で国の重要文化財。雑誌『婦人之友』を創刊。彼女の学んだ「明治女学校」には大塚楠緒子(おおつかくすおこ)も通い、女医第一号の荻野吟子はその学校の校医。 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) 永井荷風墓(1879~1959) 墓を作るなら「浄閑寺に」と言っていた荷風の墓が父久一郎(禾原・かげん)と並んでいる。時代に背を向けて江戸趣味を追い、上田敏の言う「真の享楽主義者」としての生を貫いた。『柳橋新誌(りゅうきょうしんし)』の成島柳北を深く慕った。 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) 夏目漱石墓(1867~1916) 当時の雑誌『太陽』が募集した文化人の人気投票で毎年第一位。『こころ』に雑司ヶ谷霊園を描く。小泉八雲が東大を去った後の東大講師。親友の中村是公(東京市長)や、大塚保治と妻の楠緒子、門下の森田草平、敬愛したケーベルも。 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) 金田一京助墓 一世ノ碩学金田一京助ノ霊コノ下ニ眠ル 京助ハ言語学者ニシテ特ニあいぬ語ニ精シク あいぬ叙事詩ゆうからヲ発見シテ世ニ伝エ マタあいぬ語文法ノ大要ヲ諦ム前人未踏ノ業蹟ニシテ ■■■文学博士恩賜賞ヲ受ク卒ウ 宮中ヨリ勲一等瑞宝章ヲ賜ワリ従三位ヲ贈ラル一介ノ学者トシテ破格ノ待遇ト言ウベシ 京助マタ花明ト号シテ学究ノ余暇ヲ短歌ニ親シム 某年ニ一株桜ノ時ナラヌニ満開セルヲ見ル スナワチ感ヲ催シテ右ノ詠アリ ココニ録シテソノ風ヲ懐シム 昭和47年(1972)2月21日 不肖春彦 撰文建碑 金田一京助(1882~1971) アイヌ語また、アイヌの叙事詩『ユーカラ』の発掘や言語研究で業績を残す。若い日に新詩社の『明星』に加わり短歌に親しむ。中学の後輩石川啄木を短歌に誘い、物心両面で支えた。この『明星』には一時、詩人窪田空穂も加わっている。 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) 小栗忠順墓(1827~1868) 「明治の父」と司馬遼太郎が言う、幕末の開明派の幕臣。「日米修好通商条約」批准で渡米。その随行艦「咸臨丸」には勝海舟、福沢諭吉ら。中濱(ジョン)万次郎が通訳をした。岩瀬忠震(いわせただなり・肥後守)も開明派の幕臣。 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) 小泉八雲墓(1850~1904) 父はアイルランド人、母はギリシャ人。アメリカで新聞記者などをしたあと来朝して帰化。東大講師時代、哲学の講師ケーベルと同僚であった。講師辞任の時、小説家の武林無想庵(たけばやしむそうあん)らが留任運動をした。 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) 泉鏡花墓(1873~1939) 10歳で失った母の鈴を生涯追慕し、師の尾崎紅葉を神格化するほどに仕えた。芸者(本名すず)との結婚を紅葉に反対されたいきさつが小説『婦系図(おんなけいず)』に。新派の舞台で多くの人の泪を誘った。名優喜多村緑郎もここに。 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) 竹久夢二墓 明治17年(1884)9月16日岡山に生まる。本名、茂次郎18才で上京。早稲田実業学校を卒業。絵画に専念する。抒情的画風から「夢二式」なる語が生まれる。「夢二画集」をはじめ、自装の美しい著作数十。ほか、あらゆる意匠図案に試みた先鞭的業績は高く評価される。晩年米・欧に遊び体をこわして帰国。昭和9年(1934)9月1日、信州富士見高原療養所に於て歿す。行年51。 竹久夢二(1884~1934) 「大正ロマン」を代表する画家であり詩人。「夢二式」の美人画や『宵待草』などの叙情的な詩歌が大流行。若い日に雑司ヶ谷に住む。島村抱月に目をかけられ、また羽仁もと子の「婦人之友社」で絵画主任、さし絵を描く。墓の文字は画家の有島生馬。 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) 島村抱月墓 在るがままの現実を即して全的存在の意義を髣髴す 觀照の世界也 味を徹したる世界也 比心境を藝術と云う 抱月 島村抱月(1871~1918) 早大教授。自然主義文学を唱導。松井須磨子と芸術座を興す。「早稲田の二秀才」と並び称された綱島梁川、親友の金子馬治(哲学者)、須磨子を巡って対立した東儀鉄笛(早大校歌の作曲者)。竹久夢二の才能を愛した。 所在地 豊島区南池袋4-25-1 (雑司ヶ谷霊園) 荻野吟子墓 命燃えて 埼玉県知事 土屋壽彦書 日本女医一号 荻野吟子抄 妻沼町長高橋茂撰 明治18年(1885)刻苦勉励の末 女医公許の門戸を開いた吟子の波瀾と哀切の生涯が、昭和45年(1970)小説「花埋み」で紹介されるや、根性と愛が読む人の心を揺さぶる。更に故里で武観戯曲「荻野吟子抄」舞台化要望の高まりに、平成10年(1998)妻沼出身松竹(株)茂木近専務が奔走し、10月名優三田佳子主演「命燃えて」の新橋公園が喝采を博す。次いで平成12年(2000)2月埼玉女性の根性と三田の熱演に感動した土屋義彦埼玉県知事の英断で埼玉公演が成功し、平成13年(2001)3月女史生誕150年祭に道の駅めぬまに開業記念姿の女史石像建立に際し、石匠熊谷市野口大作、彫師杉戸町山下隆雄の協力で吟子兄保坪4代の裔八王子市荻野正司家墓所改修と併わせ、女史が眠る此処と瀬棚に同じ像を贈り、永く栄光を伝える。 平成13年(2001)5月吉日 埼玉県妻沼町建之 白汀野口林造書 畊名野口孝刻 |
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