東京都豊島区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 豊島区駒込5-5-1 (染井霊園) 山田文應墓やまだぶんおう 文応師は信州伊那に生まれ、天保10年(1839)同郡、専照寺の信州和尚のもとで剃髪し、その後諸国を巡り修行に励んだ 嘉永6年(1835)の冬信州貞翔寺の首座となり、安政3年(1856)には江戸牛込・長安寺の文帝庭和尚のもとい入り、その後を継いだ。その後武蔵国・宝蔵寺、続いて小浜藩江戸酒井家の香華院長安寺の住職となる。明治4年(1871)藩主が長安寺を廃したので浅草高徳院に隠棲した。 時に政府は府内の墓地の使用を制限したため東京府民は困っていた。文応師は、これを哀れみ大いに尽力してついに政府を動かしここ染井の地に共同墓地を開設した。 明治29年(1896)夏発病し、明治32年(1899)5月21日大往生を遂げる。享年70歳であった。 所在地 豊島区駒込5-5-1 (染井霊園) 長池堤 長池は、かっての谷戸川の水源にて、古地図(安政3年〔1856〕の「駒込村町一円之図」)によれば巣鴨の御薬園と藤堂家抱え屋敷にまたがる広大なもので長さは八十間(約158m)幅は十八間(約32.4m)もあったという。 この池は現存していないが、この案内板下のくぼ地の一帯がその跡地(約半分で残り半分は道路部分)と思われる。 かっては清らかな湧水が池を満たし、清流となって染井霊園沿いに流れていた。 池から西ヶ原あたりまでは「谷戸川」、駒込の境あたりで「境川」、北区にひり田端付近で「谷田川」、さらに下流の台東区根津付近からは、「藍染川」と呼ばれて不忍池に流れこんでいた。(全長約5.2m) 明治末期には周辺の開発等もあり、湧水も減少して池も小さくんり大正に入って埋め立てられた。 ここに、在りし日の湧水清らかな「長池」とその清流「谷戸川」をしのび記念の一文を残すものである。 平成14年(2002)3月 ソメイヨシノの咲き乱れる佳日に 東京都染井霊園 |
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永山
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