東京都豊島区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 豊島区目白~高田2・雑司が谷3-1 千登世橋 千登世橋は、昭和7年(1932)に橋長28.0m、有効幅員18.2mの一径間鋼ヒンジアーチ橋で架設された。 この橋は、明治通りと目白通りとの立体交差橋で都内でも土木史的価値の高い橋として「東京都の著名橋」に指定された。 著名橋整備事業として、千登世小橋と共に親柱、高欄、橋側灯及び橋詰空間など、歴史的原型の保全を行い、文化遺産継続の願いをこめて修景を施したものである。 施行年度 平成2年(1990)度 施行者 東京都第四建設事務所 所在地 豊島区巣鴨5-35-33 (慈眼寺) 芥川龍之介墓 大正期の代表的小説家、代表作に「羅生門」「きりしとほろ上人伝」「或る阿呆の一生」「歯車」「河童」「西方の人」等、死後芥川賞が設けられた。 豊島区教育委員会 所在地 豊島区巣鴨5-35-33 (慈眼寺) 司馬江漢墓 江戸時代後期の用具宇賀で蘭学者。安藤氏の子として延享4年(1747)江戸四谷に生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめ狩野派に学んだが飽きたらず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和7年(1770)春信没後春信の偽者を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋派の宋紫石に学んで漢画を習得した。暗影年間秋田蘭画の指導者小野田直武から酔う風雅の教え を受け、天明3年(1783)腐触同伴がの創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(1818)10月21日72歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。著書には『西洋画談』『春波楼筆記』『和蘭通舶』などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化7年〔1810〕)寿塔である。 平成5年(1993)3月31日建設 東京都教育委員会 日本で最初の銅版画の創製に成功した。代表作には「銅板東都八景」がある。また「西洋画談」その他を著して、洋画の長所を力説した。 豊島区教育委員会 所在地 豊島区巣鴨5-35-33 (慈眼寺) 斉藤鶴磯墓 江戸時代後期の儒学者。地誌研究家。宝暦2年(1752)水戸藩士の子として江戸に生まれた。通称宇八郎、諱は敬夫、字は之休、鶴磯は号である。寛政8、9年(1796~1797)から文化13年(1816)頃までの約20年間、江戸から離れて所沢に住み、鈴木牧之(秋月庵)の『北越雪譜』や赤松宗旦(義和)の『利根川図誌』と並ぶ江戸時代の地誌『武蔵野話初編』を文化12年(1815)に完成させた。翌年筆禍事件により所沢を去って江戸に移った。続編は門人の校訂によって文政10年(1827)に刊行された。他の著作に『女孝経補注』『干支考』『琢玉斎漫筆』などがある。文政11年(1828)2月7日77歳で死去し、深川猿江町にあった慈眼寺に葬られたが、寺院の移転により改葬された。 平成5年(1993)3月13日建設 東京都教育委員会 江戸中期各地を歩いて、綿密な調査と考証を重ね、名著『武蔵野話』を刊行した。武蔵野を科学的にとらえている点では、この時代の第一人者である。 豊島区教育委員会 所在地 豊島区西巣鴨2-14-11 明治女学校跡 明治女学校は、明治18年(1885)に、麹町区飯田町(現千代田区)に、女子の「自覚と自立」の高等教育を目指して、木村熊二・鐙子夫妻、巖本善治、田口卯吉、植村正久、島田三郎らによって設立されました。教師には、津田梅子、島崎藤村、北村透谷などが名を連ねていました。 明治29年(1896)に、校舎が焼失し、翌明治30年(1897)、巣鴨村大字巣鴨660番地(現在の西巣鴨2丁目14・29~31番)に移転してきました。移転時の校長である巖本善治は、女学校での実践教育の一方、『女学雑誌』で啓蒙活動を行いました。この雑誌から『文学界』が生まれ、浪漫主義文学を牽引していきました。 卒業生には、新宿中村屋の創業者の相馬黒光、自由学園の創始者羽仁もと子、作家の野上弥生子などがおり、日本の近代史に名を残す多くの人材を輩出しました。 しかし、巣鴨移転後の経営は苦しく、生徒数の減少もあって、財政状況が悪化し、明治41年(1908)に閉校することになります。 閉校後、時代がくだると、明治女学校設立の意義を後世に伝える活動が行なわれるようになり、昭和37年(1962)に、巖本善治の生誕百年を記念して巖本記念会が設立され、地元の熱い要望を受けて、昭和56年(1981)10月18日に記念碑が建立されました。 平成20年(2008)3月 豊島区教育委員会 所在地 豊島区西巣鴨2-15-2 大日堂 この大日堂は、徳川幕府2代将軍秀忠(法名台徳院殿)とその婦人徳子(法名崇源院殿)に仕えた春海和尚により、承応2年(1653)に建立されたものであり、堂内には像高約1メートルの石造大日如来坐像が安置されている。 『御府内寺社備考』によれば、春海和尚は湯島天神下に所在した平等山真如寺宝性院(現台東区池之端1丁目)の開山であり、もとは俗名久目助右衛門を名乗り「下男組頭役」として将軍夫妻に仕えた。秀忠と徳子の没後「新葬」の際に、宝性院は納経を行ったが、その時に与えられた布施で豊島郡巣鴨村内のこの地に土地を求め、石造大日如来坐像を安置するために大日堂を建立したという。この像の台座には、秀忠と徳子の菩提を弔うために本像が造立された旨が、像立年月日の承応2年(1653)2月28日の日付とともに刻まれていた。 明治38年(1905)、無我愛運動の提唱者伊藤証信は、機関誌『無我の愛』を発行するとともに、大日堂を「無我苑」と称し九箇月にわたって同志とともに自炊生活を営んだ。証信の提唱した無我愛とは、一つの宗教や思想にとらわれず、あらゆる宗教・思想の根源を究め、宇宙の絶対真理すなわち無我の愛を活動の根本にするものである。証信は昭和38年(1963)に死去するまでの約60年間この精神運動を続けるが、この大日堂での生活はその出発点となったのである。 昭和20年(1945)4月13日の空襲により石造大日如来坐像は大きく欠損したが、後に頭部と両腕は補われた。現在大日堂は、地元の大日坊奉賛会の方々により大切に管理されている。 平成13年(2001)3月 東京都豊島区教育委員会 大日堂敷地内には『』があります。 所在地 豊島区西巣鴨2-33-9 延命地蔵 当延命地蔵尊は今から約190年前(文政年間)に建之され当所に移築されましたのは今から約100年前の事であります。当時は江戸五街道の一つ中山道を通行する旅人が此所で必ず一休みされた。永い旅路につかれ当地で死亡した人馬の霊を供養すべく建之されました。以後毎年8月24日を命日とし全人類の平和と幸福を願い供養して居ります。 |
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|