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東京都豊島区の歴史
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所在地 豊島区雑司が谷3-15-20 (鬼子母神堂)

面倒になればおつるか蝸牛

面倒になればおつるか蝸牛

            牛山
(京都賀茂神社の神官)


所在地 豊島区雑司が谷3-15-20 (鬼子母神堂)

 雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ
 イチョウ(銀杏・公孫樹)は、一属一種のイチョウ科に属する。裸子植物の落葉高木である。耐寒耐暑性があり、社寺の境内樹・庭園樹・公園樹・街路樹などに広く植栽されている。中国原産といわれ日本へは、遣唐使の帰国によてもたらされたという説もある。雌雄異株で、4月に開花し10月に種子(銀杏)は成熟し、黄葉する。
 樹高30メートル、幹周8メートルの雄株で、都内のイチョウでは、麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んである。応永年間(1394~1428)に僧日宥が植えたと伝えられている。古来『子授け銀杏』と言われ、戸張苗堅の『櫨楓』によると、婦人がこのイチョウを抱く光景がみられ、注連縄を張るようになったのは、文政年間(1818~1729)の頃という。
 平成2年(1990)12月27日建設 東京都教育委員会

             Zoushigaya Kishimojin no Icyou
 This is an outstanding giant ginkgo tree at Kishomojin-do in Zoushigaya.The trunk circumference is 6.63 m,the height is 32.5 m and the branches reach out 10 m in all directons. It is the second biggest ginkgo tree afte the one in Zenfuku-ji (designated a national monument by government /Minato-ku).The ginkgo in Zoushigaya was designated a natural monument by the government  in 1930,however it was unlisted in January 1946 and designated again by Tokyo metropolitan.It was called Kosazuka Konsouju(the ginkgo that gives children) and people believed it had miracle power.But now it is called Kosodate Icyou(the ginkgo that raises children).
 This is probably becouse the power of the ginkgo tree was similar with Kishimojin's.It offers a quiet view,in contrast to the nearby busy downtown of Ikebukuro.
 Tokyo Metoropolitan Board of Education 












所在地 豊島区雑司が谷3-15-20 (鬼子母神堂)

 武芳稲荷神社
武芳稲荷と称したるは何時の頃よりか不明なるも寺説によれば弘治年中(400年前)勧請の旦社にて鬼子母神の地主の神なり 又鎮座伝記には宇賀美多麻(稲荷大明神)三狐の神と同座なりと現在の尊像は貞亨卯月吉日開眼の銘あり
















所在地 豊島区雑司が谷3-15-20 (鬼子母神堂)

 鬼子母神堂本堂
  東京都指定有形文化財 指定昭和35年(1960)2月13日
 『新編武蔵風土記稿』によると建立は天正6年(1578)5月3日であるが、そののち寛文4年(1664)松平安芸守光晟の室、法名自昌院英心日妙大姉が寄進して、今の本殿を造営した。
 拝殿と幣殿(相の間)は元禄13年(1700)に建立されたことが、昭和51年(1976)におこなわれた昭和大修理において発見された墨書や銘文によって確認されている。
 本殿は桁行6.04メートル、梁間5.77メートル、一重、流造、桧皮葺形銅版葺。相の間は桁行6.06メートル、梁間6.04メートル、一重、両下造、とち葺形銅版葺。拝殿は桁行17.86メートル、梁間11.81メートル、一重、入母屋造。厨子は一間厨子、入母屋造、軒唐破風附本瓦形板葺。
 平成2年(1990)12月27日建設 東京都教育委員会

     Houmyou-ji Kishimojin-do
Honden(main hall):6.06m wide,5.90m deep,One-story,Flowing style gable roof,Cooper tile roofing,Ai-no-ma(space betwiin two buildings),3-bays wide,1-bay deep,One-story,Gable roof without gabe pediments.Haiden (worship hall):5-bays wide.4-bays deep,One-story,Hip-and-gable roof,Plover bargeboard at front,1-bay wide stepcanopy,Eabes with undulaing bargeboards,Light wight tile roofing (a pantile that combines broad concave tiles and semi-cylindrical convex tiles),Copper tile roofing only for eaves with undulating bargeboards.

 According to the ridge tag,Kishimojin Honden was constructed in 1644.Haidenn and Heiden (offering hall),which have complex roof styles,were built in 1700.According to Shinpen-Musashifudokiko (chorography of Musashikou),princess Man (3rd daughter of Toshitsune,a fudal lord of Kanazawa clan),the official wife of Mitsuakira Asano,a feudal lord of Hiroshima clan,contributed to the construction of this temple.Honden is Sangensha-nagare-zukuri (3-bays wide and has a symmetric flowing style gable roof) and 2-bays deep.It contains a 3-bays wide room including a step canopy.Heiden,whichconnects Honden and haiden,is 3-bay wide and 1-bays deep.A three steps stair is connected to its centre.Haiden is 5-bay wide,4-vays deep,and has a hip-and -gable roof an plover bargeboards.A step canopy with undulating bargeboard is at front and veranda surrounds the front and the sides.Kishimojin was founded becous a Kishimojin statue was found in 1561.According to Shinpen-Musashifudokiko and other records,a sub-templeTouyobo(now Daigyou-in),was the main worship place before.At the end of Edo period,Houmyou-ji was so popular that eve the Shogun visited.
 Tokyo Metropolitan Board of Education





















所在地 豊島区雑司が谷3-15-20 (鬼子母神堂)

 北辰妙見堂
 妙見さまはまたの名を北辰菩薩・尊星王などといい、本来北斗七星を神格化したものであります。妙見さまの御利益は国土を守り、長寿延命をはじめとする除災招福とされ、またその名称の”妙見”から眼病平癒の菩薩として尊崇されています。
 そのお姿には童子像のものや国土擁護の威神力を示すための武神像のものもありますが一般には美しい天女像で、雲まには亀に乗り、左店蓮華を持ち、その蓮華の上には北斗七星が形づくられ、右手では説法印(教えを説く姿を示すもの)を作るもの、また四臂でそれぞれの手に日輪と月輪、筆と紙を持つお姿などがあります。
 この筆と紙は妙見さまが、空の星のように人びとの生活を見おろし、その善悪の生活を記録されているさまを示すものであります。妙見信仰は本来、真言宗からはじまりましたが、日蓮宗でもとの信仰は盛んで、大阪能勢の妙見さまとその別院の東京墨田区本所の妙見さままたは墨田区柳島の妙見さまなどは有名です。
 当堂に安置する尊像は天女像で亀に乗っておられます。亀に乗った妙見さまは池上本門寺妙見堂にお祀りする尊像など数多くみられますが、この亀は北の空を守る玄武神の化身とされています。当堂の尊像が何時建立されたのかは不明ですが昭和51年(1976)から4年間にわたって行われた鬼子母神堂の大改修の折に発見された棟札によって、この妙見堂が天明8年(1788年徳川11代将軍家斉の時代で鬼子母神堂の本殿建立の122年後)であることが明らかになりました。






所在地 豊島区駒込1-10-15

 「鹿碑」と「瘞賜豬碑」(旗本本郷丹後守下屋敷跡)
 この地は、江戸時代後期以降旗本・御家人の屋敷地として使用されていた土地で、幕末に発刊された「江戸切絵図」には、旗本本郷丹後守の下屋敷であったことが明記されている。
 ここに立つ2基の石碑は、寛政7年(1795)造立お「鹿碑」と、嘉永2年(1849)造立の「瘞賜豬碑」であり、ともに旗本本郷氏によるものである。
 石碑には、将軍が行なった鹿狩に本郷氏が側近として同行し、その際将軍から獲物を可賜されたことなどが刻まれている。いずれも豊島区域内にかつて居住していた武家の歴史を示す貴重な文化遺産として豊島区指定有形文化財になっている。
 明治時代になると、明治維新の三傑といわれた政治家木戸孝允(桂小五郎)がこの地を入手し別邸とした。その後、この地域は急激に都市化が進行したが、2基の石碑は、土地所有者のの文化財に対する理解のもと、現在まで大切に伝えられてきたのである。
 平成10年(1998)11月27日 東京都氏まく教育委員会










所在地 豊島区駒込3-2-11

 大国神社



 大国神社には『藤田氏報恩之碑』があります。

 


所在地 豊島区高田2-17先

 東京府土木部長 来島良亮君像
故従四位勲四等来島良亮君ハ山口縣ノ人ナリ明治45年(1912)東京帝国大学ヲ卒業シ内務技師ニ任せらる利根川及雄物川ノ改修ニ功アリ秋田市会議員ニ挙ケラルルコト二回昭和2年(1927)東京府土木部長ニ補セラル居ルコト6年力ヲ都市計畫ノ諸事業河川港湾ノ改修府縣道ノ改良ニ致シ業績顕著ナリ環状道路ノ如キモ亦君ノ労苦ニ負フ所多シ8年9月再ヒ内務技師ニ任セラレ北海道■技師ヲ兼ヌ偶疾ヲ獲11月卒ス享年40有九近者知友胥謀テ地ヲ此ニ相シ紀念碑ヲ建ツ
 昭和9年(1934)11月22日










所在地 豊島区巣鴨

 巣鴨地蔵通商店街(旧中山道)
 旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使われてもらう人などもいました。
 旅人は、農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国元で栽培しようと、タネを欲しがる人も多く、やがては農家の副業としてタネを販売するようになりました。その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現するとタネを扱う専門店ができ、明治の中期には巣鴨のとげぬき地蔵から板橋区清水町にいたる約6kmの間にタネ問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並びさながら、タネ問屋街道になっていました。
 寛永20年(1643)の代官所に申告した書き付けに、長野県諏訪からきたタネの行商人が榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れにきた模様が記されています。
 馬12~3頭をひいてタネを仕入れ、帰り道「萬種物」の旗を立てて街道のタネ問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売りと同じようにタネも行商により商われていました。
 平成9年(1997)度JA東京グループ
 陶業協同組合法施行50周年記念事業
 東京都種苗会
 
   
             THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO
           The Old Nakasendo,a Seed Dealer's Highway
 people travelling along the old Nakasendo used to drop in the farmer's house to eat their own lunches.When they saw a vegetable new to them in farmer's premises,they often asked for some seeds to take home to grow them.Eventually,farmer began to sell seeds as their  side job.Then,by the year 1890,there were 9 wholesalers and 20 retailers of seeds within the span of 6 km along the Nakasendo between Togenuki-JIzo in Sugamo and Shimizu-cho in Itabashi ward.The old Nakasendo looked like a Seed  Dealers' Highwai in hose days.

 


所在地 豊島区南池袋4-7-19

日蓮宗
 不動山 宝城寺(寶城寺)



 宝城寺には『祈雨日蓮大菩薩碑』があります。

 


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