東京都豊島区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 豊島区駒込3-16-16 妙義神社(太田道灌公戦捷祈願之舊趾) 当社の祭神は、高御産霊神・日本武尊・神功皇后・応神天皇である。文政11年(1828)に成立した『新編武蔵風土記稿』の記述によれば、日本武尊が東征の時にこの地に陣営をしき、のち白雉2年(651)5月に社を建てて白鳥社と号したという。これによれば、宮内最古の神社ということになる。 くだって文明3年(1471)5月、足利成氏との戦いを前にした太田道灌は当社に参詣し、神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。その際、「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは、成氏を敗走させたという。 続いて道灌は、文明9年(1477)の豊島勘解由左衛門との戦いの際、さらに同11年(1479)の千葉孝胤攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したといわれている。こうした故事から、「戦勝(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。その一方で、大永年間(1521~1527)には江戸城代遠山丹波守が、また永禄12年(1596)には守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間(1573~15991)に松田尾張守康秀が社領を没収したのち衰廃するなど、当社にとって戦国時代は波瀾の時期でもあった。 境内には、寛永19年(1642)11月に駒込村の農民によって建立された庚申塔が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。 平成9年(1997)3月 東京都豊島区教育委員会 妙義神社には『庚申塔』、『道灌霊社』、『歌碑』、『「稲荷明神・天満宮・弁財天」祠の碑』があります。 所在地 豊島区駒込6-11-4 真言宗豊山派 藤林山 歓喜院 西福寺 豊島八十八ヶ所霊場62番札所 真言宗豊山派の寺院で、藤林山歓喜院と号し、西ヶ原無量寺の末寺である。 本尊は、徳一大師の作といわれている木造阿弥陀如来立像である。創建の年代は明らかでないが、「江戸切絵図」や「江戸名所図会」・「新編武蔵風土記稿」などにも記事があり、駒込に江戸時代から続く寺院である。 この寺が位置する染井地域は、江戸時代、大名屋敷が多くあり、近くに津藩藤堂家の下屋敷があったことから、その祈願寺となっていた。また、近隣には植木屋も集住しており、その菩提寺ともなっていた。 かつての境内地は、非常に広大であったが、明治維新後に縮小されたといわれている。 境内には、明暦元年(1655)に造られた六地蔵がある。これは「六道」すなわち地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道について教えを説くための六体の地蔵が刻まれたものであり、豊島区内では最古のものである。 墓地には、徳川将軍家の御用を務めた植木屋として名高かった伊藤伊兵衛政武(4代目、宝暦7年〔1757〕没)の墓がある。政武は樹仙と号し、『増補地錦抄』などを著わした、江戸時代の先駆的な植木屋である。この墓所は、東京都史跡に指定されている。 平成23年(2011)3月 豊島区教育委員会 西福寺には『伊藤政武墓』、『伊達慶邦公墓址記念碑』があります。 所在地 豊島区駒込6-11-4 (西福寺) 伊達慶邦公墓址記念碑 陸奥国仙台藩第13代藩主伊達慶邦(だてよしくに)公は明治7年(1874)逝去され、ご遺体は当寺に納められた。明治23年(1890)に仙台大年寺伊達家墓所へと改葬された。その後、大正9年(1920)に家臣であった佐藤素拙の意思を継ぎ、その子佐藤喜六により墓址記念碑が建立された。慶邦公報恩謝徳の為、仙台藩士として長く公に仕えてきた佐藤素拙顕彰の為、建立せられたものである。 平成23年(2011)4月吉日 藤林山 西福寺 所在地 豊島区駒込6-11-4 (西福寺) 伊藤政武墓 江戸時代中期の園芸家。政武は江戸の北、染井村(現在の豊島区駒込6、7丁目付近)の伊藤三之丞の子として延宝4年(1676)に生まれた。号を樹仙という。伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、近くの伊勢津藩藤堂家の下屋敷に出入りして、庭の世話をしているうちに植木屋となり、江戸第一の種苗商となった。その種苗目録を『地錦抄』という。4代目の政武は江戸城にも出入りして将軍吉宗の御用植木師となり、城内の植木を管理していた。日本の園芸が独自に発達したのは江戸時代であり、キク、ツバキ、カエデ、ツツジ類、アサガオなどの園芸植物が改良され、また、朝鮮や中国をはじめ外国からも多くの植物が輸入されている。政武は特にカエデを好み、深山楓に舶来の楓を接き木することに成功した。 写実的な絵画を得意とし、園芸植物に関する著書に『草花絵前集』『増補地錦抄』『広増地錦抄』『地錦抄附録』などがある。宝暦7年(1757)10月2日81歳で死去した。 平成5年(1993)3月31日建設 東京都教育委員会 所在地 豊島区高田1-19-16 真言宗豊山派 大鏡山 南蔵院 薬師寺 本尊 薬師如来 開基 円成比丘 室町時代永和2年(1376)寂 総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬 祖師 宗祖 弘法大師(空海) 中興祖 興教大師(覚鑁) 派祖 専誉僧正 札所 御府内八十八ヶ所 第29番 豊島八十八ヶ所 第41番 開宗と三祖 即身成仏の教えを説く密教は7世紀頃インドに起こり、8世紀には中国に伝わり、平安初期に弘法大師によってわが国にもたらされ、真言宗として開宗されました。 興教大師は、平安時代末期、弘法大師に教えを深く研究し、時代に合った新しい真言密教の教えを興しました。 その教えを受け継ぐ専誉僧正が、戦国時代大和長谷寺に入り、豊山派の基礎を築かれました。 豊山とは総本山長谷寺の山号です。 ご宝号 南無大師遍照金剛・南無興教大師・南無専誉僧正 真言宗豊山派に属し、大鏡山薬師寺南蔵院という。寺伝では、開山は室町時代の円成比丘(永和2年〔1376〕寂)とされる。本尊の薬師如来は、木造の立像で、奥州藤原氏の持仏といわれ、円成比丘が諸国遊化のとき、彼の地の農家で入手し、奉持して当地に草庵を建て安置したのが開創であると伝えられる。 正徳6年(1716)の「高田村絵図」(東京都公文書館蔵)には、境内部分に「薬師堂」・「南蔵院」の文字の他、山門、薬師堂と思われる建物、および樹木三本が描かれている。また、江戸時代の地誌にも紹介されており、『江戸名所図会』や『新編武蔵風土記稿』では、徳川三代将軍家光がしばしば訪れたと記している。 現在の境内には、元禄9年(1696)に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天の石碑と手水鉢や、庚申塔、六地蔵、彰義隊九士の首塚などの石造物があるほか、墓地内には、相撲年寄である片男波、粂川、雷、音羽山、二子山、花籠などの墓がある。また、三遊亭圓朝作の「会談乳房榎」にゆかりの寺でもある。 平成21年(2009)3月 豊島区教育委員会 名作怪談乳房榎ゆかりの地 昭和48年(1973)8月 大鏡山南蔵院 豊島を語る会 江戸町名俚俗研究会 新宿郷土会 江都文化財研究会 江戸から東京への会 新宿史跡之会 円朝考文集刊行会 江戸時代の高田村 天保5年(1834)に刊行された『江戸名所図会』では、高田村付近の様子が、長谷川雪丹による三枚の挿絵付きで紹介されている。 「高田」と題された挿絵の中央に南蔵院が配され、境内に薬師(堂)と鶯宿梅が描かれている。 鶯宿梅は、江戸幕府三代将軍徳川家光が自ら植えたといわれ、このときすでに枯れていたとされるが、『新編武蔵風土記稿』では、鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記している。 南蔵院の前には右橋、付近には高札場や茶店、道には籠・馬などが描かれている。道を隔てたところには氷川神社がある。これらの位置関係や道の曲がり方などは、現在もほとんど変わっておらず、江戸時代の名残りをとどめている。 平成21年(2009)3月 豊島区教育委員会 南蔵院には『忠魂碑』、『佛塔供養碑』があります。 所在地 豊島区高田1-34-6 真言宗豊山派 金剛宝山 根性院 延寿寺 山号 金剛賓山 根性院(延壽寺) 本尊 薬師如来(仏師 春日作) 開基 栄誉法師(1674没) 宗派 真言宗豊山派 総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬 祖師 宗祖 弘法大師(空海) 中興祖 興教大師(覚鑁) 派祖 専誉僧正 札所 御府内八十八箇所 第35番 沿革 寛永12年(1636)徳川幕府西の丸祈願所として、神田白壁町に建設、寺領二百石を賜る。 正保2年(1645)下谷長者町へ移転。 貞享4年(1687)新義真言宗の触頭「江戸四ヶ寺」となる。 元禄元年(1688)本郷切通坂知足院跡へ移転。 元禄3年(1690)第二世栄専、観音経を講じ、将軍綱吉より寺領百石加増される。 明治22年(1889)上野池端七軒町へ移転。 明治36年(1903)豊島郡高田、田安候旧邸へ移転。 根性院には『青面金剛庚申塔』、『石造大日如来像』、『奉供養庚申天子』、『石標』があります。 所在地 豊島区高田1-34-6 (根性院) 石標 四圀八十八ヶ處 第三十五番 願主諦信 南無大師遍照金剛 宝暦七丁丒五月吉日 江戸府内八十八箇所札所の石標(標石) 初期(1757)の石標で府内に現存する石標は4基 所在地 豊島区東池袋2-56-7 庚申塔 自然石・天保十三年 「新編武蔵風土記稿」妙義社の項に「末社稲荷庚申・寛永寛永庚申ノ碑ニアリ、是ヲ神体トス」とありて江戸時代には稲荷として祀られていた事がわかる。 昭和40年(1965)神社復興工事の際、境内土中より発掘され社殿左側奥に建立されたが今回の境内整備に伴い現位置に遷された。 尚寛文2年(1662)の碑は失われたと思われる。 平成10年(1998)9月建之 所在地 豊島区西池袋1-9-12 (元池袋史跡公園) 池袋地名ゆかりの池碑 むかしこのあたりに多くの池があり、池袋の地名は、その池からおこったとも伝えられている。池には清らかな水が湧き、あふれて川となった。この流れはいつのころから弦巻川とよばれ、雑司が谷村の用水として利用された。 池はしだいに埋まり、水も涸れて今はその形をとどめていない。これは、むかしをしのぶよすがとして池を復元したものである。 東京都豊島区教育委員会 石碑寄贈 東京池袋ライオンズクラブ 所在地 豊島区巣鴨3-35-2 曹洞宗 萬頂山 高岩寺 とげぬき地蔵尊 山号・寺号 萬頂山高岩寺 開創年代 埼玉県熊谷市大字下奈良萬頂山集福寺五 世扶獄太助大和尚 開創地 神田明神下(現千代田区外神田2丁目)のち下谷屏風坂下(現台東区上野7丁目岩倉高等学校附近)に移転 当地移転 明治24年(1891)5月28日。同年9月24日入仏式。昭和初期に中仙道新道(現国道17号)建設により境内分割。現本堂完成昭和32年(1957)11月30日。庫裡完成昭和59年(1984)12月18日。 正徳3年(1713)5月(徳川7代将軍家継の治世)、江戸小石川に住む田付氏の妻、常に地蔵尊を信仰していたが、一人の男児を出産後重い病気に見舞われて床に臥した。諸々の医者が手をつくしたが、病気は悪化の一途。彼女は生家に宿る怨霊によって女はみな25才までしか生きられないという父母の話を夫に伝えた。 田付氏は悲しみの中に、この上は妻が日頃信仰する地蔵尊におすがりするほかはないと毎日一心に祈願を続けた。 ある日のこと田付氏の夢枕に一人の僧が立ち「自分の形を一寸三分に彫って河水に浮かべよ」という。田付氏が「急には彫り難い」と答えると「お前に印像をあたえよう」といわれ、夢がさめた。不思議な夢と枕元をみると、木のふしのようなものが置いてあり、平らな部分に地蔵菩薩のお姿があった。 田付氏は夢にあった通りと不思議に思いつつも、地蔵尊の宝号を唱えながら形を印肉にしめして一万体の「御影」をつくり、両国橋から隅田川に浮かべ、一心に祈った。 その日の夜午前2時頃、田付氏は妻の呼ぶ声にいってみると「今夢うつつの中に男があらわれ、長い棒と籠のようなものを持って枕上に立ちました。すると香染の袈裟をつけた一人の僧が出て来て蚊帳の外に引き出し、次の間で錫杖で背中をついて追い出してしまいました」といった。 このことがあって以来田付夫人の病気はしだいに快方に向かい、11月中旬には床をはなれ、以後無病になった。 田付氏がこの冷厳を山高氏の家で話していると、一座の中に西順という僧がいて、その御影をほしいといわれ、2枚をあたえた。西順は毛利家に出入りしていたが、ある時同家の女中が口にくわえていた針を飲みこんで大いに苦しんだ。西順が持っていた地蔵尊の御影1枚を飲ませると、腹中のものを吐き、御影を洗ってみると、飲みこんで針がささって出て来た。(享保13年〔1728〕7月17日=8代将軍吉宗の治世、田付氏が自ら記して高岩寺に献納された「霊験記」より) 高岩寺には『洗い観音』、『小僧稲荷神社』があります。 |
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