東京都豊島区の歴史
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× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 豊島区西巣鴨2-14-11 明治女学校跡 明治女学校は、明治18年(1885)に、麹町区飯田町(現千代田区)に、女子の「自覚と自立」の高等教育を目指して、木村熊二・鐙子夫妻、巖本善治、田口卯吉、植村正久、島田三郎らによって設立されました。教師には、津田梅子、島崎藤村、北村透谷などが名を連ねていました。 明治29年(1896)に、校舎が焼失し、翌明治30年(1897)、巣鴨村大字巣鴨660番地(現在の西巣鴨2丁目14・29~31番)に移転してきました。移転時の校長である巖本善治は、女学校での実践教育の一方、『女学雑誌』で啓蒙活動を行いました。この雑誌から『文学界』が生まれ、浪漫主義文学を牽引していきました。 卒業生には、新宿中村屋の創業者の相馬黒光、自由学園の創始者羽仁もと子、作家の野上弥生子などがおり、日本の近代史に名を残す多くの人材を輩出しました。 しかし、巣鴨移転後の経営は苦しく、生徒数の減少もあって、財政状況が悪化し、明治41年(1908)に閉校することになります。 閉校後、時代がくだると、明治女学校設立の意義を後世に伝える活動が行なわれるようになり、昭和37年(1962)に、巖本善治の生誕百年を記念して巖本記念会が設立され、地元の熱い要望を受けて、昭和56年(1981)10月18日に記念碑が建立されました。 平成20年(2008)3月 豊島区教育委員会 PR 所在地 豊島区西巣鴨2-15-2 大日堂 この大日堂は、徳川幕府2代将軍秀忠(法名台徳院殿)とその婦人徳子(法名崇源院殿)に仕えた春海和尚により、承応2年(1653)に建立されたものであり、堂内には像高約1メートルの石造大日如来坐像が安置されている。 『御府内寺社備考』によれば、春海和尚は湯島天神下に所在した平等山真如寺宝性院(現台東区池之端1丁目)の開山であり、もとは俗名久目助右衛門を名乗り「下男組頭役」として将軍夫妻に仕えた。秀忠と徳子の没後「新葬」の際に、宝性院は納経を行ったが、その時に与えられた布施で豊島郡巣鴨村内のこの地に土地を求め、石造大日如来坐像を安置するために大日堂を建立したという。この像の台座には、秀忠と徳子の菩提を弔うために本像が造立された旨が、像立年月日の承応2年(1653)2月28日の日付とともに刻まれていた。 明治38年(1905)、無我愛運動の提唱者伊藤証信は、機関誌『無我の愛』を発行するとともに、大日堂を「無我苑」と称し九箇月にわたって同志とともに自炊生活を営んだ。証信の提唱した無我愛とは、一つの宗教や思想にとらわれず、あらゆる宗教・思想の根源を究め、宇宙の絶対真理すなわち無我の愛を活動の根本にするものである。証信は昭和38年(1963)に死去するまでの約60年間この精神運動を続けるが、この大日堂での生活はその出発点となったのである。 昭和20年(1945)4月13日の空襲により石造大日如来坐像は大きく欠損したが、後に頭部と両腕は補われた。現在大日堂は、地元の大日坊奉賛会の方々により大切に管理されている。 平成13年(2001)3月 東京都豊島区教育委員会 大日堂敷地内には『』があります。 所在地 豊島区西巣鴨2-33-9 延命地蔵 当延命地蔵尊は今から約190年前(文政年間)に建之され当所に移築されましたのは今から約100年前の事であります。当時は江戸五街道の一つ中山道を通行する旅人が此所で必ず一休みされた。永い旅路につかれ当地で死亡した人馬の霊を供養すべく建之されました。以後毎年8月24日を命日とし全人類の平和と幸福を願い供養して居ります。 所在地 豊島区西巣鴨2-39-5 (千川上水公園) 千川上水調節池跡 千川上水は、元禄9年(1696)、小石川白山御殿・湯島聖堂・上野寛永寺・浅草寺御殿と、下谷・浅草方面御江戸市民の飲料水を確保するために、玉川上水を分水した上水です。その後、近隣農村の農業用水としても利用されました。明治期以降は、紡績・製紙・製粉・伸銅工場などの産業用水として利用され、流域の地域や人々と密接に関わってきました。 上水は、ここにつくられた溜池(沈殿池)で、砂やごみなどを沈殿させた後、木樋や竹樋の暗渠となって江戸市中へ給水されました。なお、この付近を「堀割」と呼んでいますが、これは、慶応元年(1865)に、幕府が滝野川村に建設した反射炉の水車利用のため、王子方面への分水(王子分水)を開削する際に堀をつくったことに由来しています。 明治13年(1880)、岩崎弥太郎らが設立した千川水道株式会社によって、本郷・小石川・下谷・神田方面への給水が再開されると、王子分水との分配堰が設けられました。明治通りの向かい側(北区滝野川6-9)には、水利関係が刻まれた「千川上水分配堰」の碑(明治15年建立)が残されています。 一方、公園側には分配堰の落し口があり、沈殿槽からの水量調整を行なっていました。公園内には、駒込六義園方面への送水に使用していたバルブ(巻揚器)が現在も残っています。 平成16年(2004)3月 豊島区教育委員会 所在地 豊島区西巣鴨3-20-1 大正大学 この正門は、本学の前身である宗教大学『大正15年(1926)大正大学と改称』がこの地に設けた本館の正面の車寄せをモデルとしています。明治41年(1908)に建設された本館は、中央に高さ15メートルにもおよぶバロック風の角型ドーム屋根の講堂を置き、左右対称に教室をのばした、全長60mの壮大な洋風木造建築でした。校舎は昭和43年(1968)解体されましたが車寄せは『登録有形文化財』として博物館明治村(愛知県犬山市)に移築保存され往時の雰囲気を今につたえています。 所在地 豊島区西巣鴨4-8-25 天台宗 薬王山 廷寿院 善養寺 善養寺は、天長年間(824~833)に、開基である慈覚大師が上野山内に創立したと伝えっれる天台宗の寺院で、正式には薬王山延寿院善養寺という。東叡山寛永寺の末寺で、本尊は薬師如来像である。 江戸時代の寛文年間(1661~1672)に下谷坂本(後の下谷区善養寺町、現台頭区上野公園)に移転した後、境内地が鉄道用地の拡張にかかるということで、明治45年(1912)に北豊島郡巣鴨村大字巣鴨字庚申塚347番地(現在地)へ移転し、現在に至っている。 本堂には高さ約3メートルの木造閻魔王坐像(豊島区登録有形文化財)が鎮座し、広く信仰を集めていることから「おえんまさまの寺」とも呼ばれ、また、杉並区松ノ木3丁目に所在する華徳院、新宿区新宿2丁目に所在する太宗寺とともに、江戸三大閻魔の一つとしても親しまれてきた。 境内には、寛永6年(1629)造立の石燈籠をはじめ、延宝8年(1680)の駒型庚申塔、天明8年(1788)の宝篋印塔、また江戸時代中期に陶工・絵師として活躍した尾形乾山の墓(東京都指定旧跡)や、フランスでジュリオ・キュリー教授(キュリー夫人の娘婿)の指導を受けた原子物理学者湯浅年子の墓など、多くの貴重な文化財が残されている。 平成14年(2002)3月 東京都豊島区教育委員会 閻魔堂 善養寺には『尾形乾山墓・碑』、『湯浅年子墓』、『武蔵川喜偉之』、『宝篋印塔』、『茶釜碑』、『茶釜塚』があります。 所在地 豊島区西巣鴨4-8-25 (善養寺) 湯浅年子墓 国際的に活躍した日本女性初の物理学者 1909年東京に生まれる。東京文理科大学卒業後、1940年渡仏。ショリオ=キュリー夫妻に師事して原子核の実験的研究を開始。1943年フランス国家理学博士。大戦のため1945年帰国。母校・東京女子高等師範学校教授として後進の育成、お茶の水女子大学の設立に尽力。1949年再渡仏。以降フランスの原子核研究所にあって、β崩壊、原子核反応、少数核子系などの最先端の問題に挑戦、その優れた業績により世界的地歩を築いた。また日仏の研究協力に努めて学術交流に貢献した。比類なき行動力、溢れるばかりの知性と感性は人々を魅了し、その深い真情・思索に満ちた著作と、広い交友により、日仏の文化交流にも大きな足跡を残した。 1980年パリに没す。享年70歳。 紫綬褒章・勲三等瑞宝章受章 2001年6月 有志一同 淡雪の あはさにきゆる 霧の跡 ながある刹那を 我がとこしへに 年子 1950年のノートより臨模 所在地 豊島区西巣鴨4-8-25 (善養寺) 尾形乾山墓・尾形乾山碑 江戸時代中期の陶工、画家光琳の実弟で「金の光琳・銀の乾山」と並び称された。 名は惟允、通称は新三郎、権平といい、乾山は号。寛文3年(1663)京都に生まれた。画法を兄光琳に学び、陶芸は野々村仁清に学んで色絵陶器の感化を受けて、絵付け模様に特色を出し、高雅な作品を残している。当時の人は特に乾山焼と呼んで珍重した。後世乾山風として模倣作が多く、鑑別は非常に困難である。 晩年江戸に下り、下谷入谷村に窯を開き寛保3年(1743)6月2日81歳で没した。下谷坂本にあった善養寺は、明治44年(1911)現地に移転した。 平成6年(1994)3月31日建設 東京都教育委員会 所在地 豊島区西巣鴨4-8-25 (善養寺) 武蔵川喜偉之碑 武蔵川喜偉は明治42年(1909)3月1日東京府下南葛飾郡大島町に生る 姓は駒沢 名は国一 実父の知人本所警察署高野署長が横綱常陸山と同郷の縁にて出羽海部部屋に入門 大正14年(1925)1月初土俵を踏む 入門後も府立三中現両国航行に通学し向学の念極めて強し 大正14年(1925)5月出羽ノ子と名乗り新序 昭和2年(1927)1月出羽ノ花と改む 昭和7年(1932)2月新入幕時に24歳幕内在位16場所 昭和15年(1940)5月引退 市川姓に更る 年寄武蔵川を襲名し昭和20年(1945)推されて理事兼勝負検査役 昭和33年(1958)取締となる この間経理建築土木を学び協会経営の近代化に盡瘁す 昭和43年(1968)理事長に就任 多年培いたる才能を発揮し顕著なる功績を挙ぐ 昭和49年(1974)相談役 昭和51年(1976)相撲博物館長となる 生来頭脳明哲 性情清廉潔白事に処するに熟慮断行協会の体制改革に敏腕を揮う 蔵前国技館の建設に当っては東奔西走 数多くの艱難を克服して完成し着々と業績を伸ばし経営の合理化健全化に全力を投入 両国新国技館新築の財源を蓄積してその基盤を鞏固にし、昭和60年(1985)1月新国技館完成を見るや往時を顧み感慨無量なりしと推察す 昭和45年(1970)11月多年の功を以て藍綬褒章を受章 昭和54年(1979)11月勲三等瑞宝章を拝受する光栄に浴す 昭和62年(1987)5月30日宿病のため天命を完す 協会は昭和62年(1987)6月2日協会葬を以て其霊を慰す 生前の功績を讃えて正五位に叙せらる 其栄誉燦として霊前に輝く 昭和63年(1988)1月30日 理事長 春日野清隆撰文 六代目 出羽海智敬建立 25代式守伊之助謹書 所在地 豊島区西巣鴨4-8-28 (妙行寺) お岩様墓所 お岩様g、夫伊右衛門との折合い悪く病身となられて、その後亡くなったのが寛永13年(1636)2月21日であり爾来、田宮家ではいろいろと「わざわい」が続き、菩提寺妙行寺4代日遵上人の法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれた。 この寺も当時四谷にあったが、明治42年(1909)に現在地に移転した。 お岩様に塔婆を捧げ、熱心に祈れば必ず願い事が成就すると多くの信者の語るところである。 |
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